3月号
映画をかんがえる | vol.36 | 井筒 和幸
1989年。年が明けてすぐに、「昭和」が終わり、「平成」と年号が変わったその年に使っていた“映画は夢”と表に書かれた大学ノートが手元にある。「映画は朝方に見る夢だ」などと誰彼に語っていたことだ。35年前のメモが懐かしい。当時の自分がいる。日本では株価が史上最高値を記録し、世界も時代の転換期でその秋には東西ドイツを分断していたベルリンの壁が市民の手で崩壊した。ノートには「こんな急に世界が変わるんだ。米ソ冷戦は終わりだ!終われ!007にもう用はない!自由だ!映画を作れ!」と詩も書いてある。新時代を歓んでいたようだが、なんて幼い文章だろ。
そして、ノートには観ていた昭和時代の映画タイトルが何十本も記してある。次に撮りたい映画を構想していた頃だから、片っ端から旧作をビデオで見てヒントを得ようとしていたのだ。11才で初めて父親と一緒に観た『陸軍残虐物語』(63年)もメモにある。これはボクの大人映画への入門作だった。拙作『犬死にせしもの』(86年)に出てくれた西村晃さんが根性悪の軍曹役で軍隊組織の冷酷さ非情さを全身で演じた、とても忘れ難い衝撃作だ。でも、こんなものをなぜ見直したのかな。テレビで「水戸黄門」を演じていた西村さんと京都駅のホームででも会ったからかな…。そこまでは書いていないが。
中学時代に観た作品もたくさん見ている。『動く標的』(66年)、さらに『新・動く標的』(76年)とある。ロサンゼルスが舞台で、ポール・ニューマン主演のタフな探偵の話だ。このページには「クロンネンバーグ監督の『ザ・フライ』(87年)のプロデューサーのアホなパーティーに行く」とメモもある。ロサンゼルスに行った時に街の雰囲気に気圧されて帰ってきた後のようだ。この頃は繁栄の裏側を暴くような映画の想を練っていたのかな。乾いた台詞と銃弾が飛びかう探偵モノを作りたかったのかもだ。邦画界でそんなアメリカンなものが成り立つはずもないのに。
メモにある「アホなパーティー」の話だが、そのB級ホラーのリメイクでひと儲けした製作者の邸宅でのハリウッド流パーティーに知人と紛れ込んだことがあった。広い庭のテーブルにワインポンチや料理が並び、よく見るとチキンの唐揚げとフライドポテトだけだったが、奥からスイングバンドの生演奏が響き、青い光のプールには水着の女たちが戯れていた。自称女優、プロデューサーもどき、無名ライターたちがグラス片手に談笑し、そこはハリウッドの虚栄そのものだった。そして、ボクは日本で何をしてきた人間かさえ解らなくなるような、そんな虚飾の世界に迷い込んでいたのだ。
ノートには邦画よりアメリカ映画が多い。やはり、ハードボイルドなものを模索していたのかな。人物の心情描写よりも戯れ言のかけ合いをするうちに劇的な事が次々に起こる映画が、自分には一番合っていたようだ。『ゴッドファーザー』(72年)でマフィア一家の顧問弁護士役で世界中に顔を知られたロバート・デュバル主演の『組織』(73年)は今でも色褪せない逸品だ。小説の「悪党パーカー」シリーズの映画化で、刑務所から出た主人公が牧場主の兄を殺した組織に復讐に行く話だ。義理堅い仲間役のジョー・ドン・ベイカーも存在感があった。哀れな情婦役のカレン・ブラックもいい。組織のボス役は重鎮ロバート・ライアン。くたびれた感じの悪党はお手のものだ。昔の三國連太郎さんの感じだ。そして、彼らを捌くのは鬼才ジョン・フリンだ。気が晴れないボクの心を必ず挽回させてくれる監督で、ベトナム戦争の帰還兵のこれまた敵討ちの話、『ローリング・サンダー』(78年)も彼の入魂作だった。これに出演した武骨な帰還兵役が若き日のトミー・リー・ジョーンズだ。まさか、彼も売れない頃にハリウッドの3流パーティーに乱入してたのかな…。その後の『歌え!ロレッタ愛のために』(81年)ではカントリー歌手の夫で心優しい炭鉱夫役も実にハマっていた。
ノートを捲っていると当時の気分に戻っていた。この頃もこんな風に好きな作品や俳優を連想しては、片っ端から見直していたんだろうな。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。