11月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の八〜 西園寺公経 1171~1244
ちょっとだけ身分が高いフツーの公家だった西園寺公経。ところが源頼朝の姪を妻に迎えてから躍進、1221年の承久の乱では鎌倉側に肩入れして後鳥羽上皇に幽閉されるも結局は勝ち、その後は幕府の後押しで太政大臣にまで登り詰めます。孫やひ孫に将軍もいれば天皇もいるだけでなく、宋との貿易で巨額の富を得てあちこちに屋敷や別荘を持っていました。一方で琵琶や歌に長けた文化人でもあり、百人一首96番で「花さそふ嵐の庭の…」と詠んでいる入道前太政大臣こそ西園寺公経その人でございます。
公経が有馬へ通うようになったのは、姉の夫で親しかった藤原定家が有馬フリークだった影響もあるかもしれません。ちなみに公経の有馬に関する情報はほとんど定家の日記『明月記』がソースになっており、定家の息子の為家も公経に随行したびたび有馬へ行っています。
最初の入湯は1227年。公経57歳の時ですから当時の価値観では老人で、膝痛だったとか。「治るかどうかわからんけどな。膝や足の効能ならほんまは湯郷温泉がええらしいけど、美作まで行ってられへんし」てなことが『明月記』に書いてあります。実はこの直前に娘と妻を立て続けに亡くしており、心の保養も兼ねていたのかもですね。
で、公経は有馬を気に入ったみたい。湯屋を建て、1229年にはそこへ九条教家がお泊まりしています。1230年には3月に有馬へ、11月も行こうとしたけど取りやめたようで。
そしてその翌年がスゴい!3月の有馬行きは「旅の好み」、つまり療養ではなく遊びと明言しちゃってる。そして秋には水田=吹田の別荘に十数日間、毎日200桶の温泉を有馬より運ばせその湯に浸かります。水田御殿は現在のJR吹田駅から南へ1kmほど、正露丸やマロニーの工場のあたりにあったようですが、当時は景勝地だったとか。でもこの戯れが栄華の極みか、直後に病を得て出家し、その後の2度の有馬来訪は咳病の治療が主目的となり「ふりゆくものは我が身なりけり」…。
温泉のお取りよせ、つまり汲み湯は、公経以前にも定家の兄嫁の大宮禅尼がおこなっています。その後、後嵯峨上皇や後深草天皇や秀吉なども有馬の湯を召し寄せ、代々の徳川将軍も熱海の湯を江戸城へ運ばせていました。汲み湯に対し泉温派で城崎推しの香川修徳は否定的で、泉質派で有馬推しの柘植龍洲は肯定的と、当連載の其の伍に出てくる医者の評価が対照的なのも面白いところで。
それにしても遊興のためにこれほど大規模に汲み湯をやった人は、後にも先にも公経のほかにはおりません。財力も権力も腐るほどあったのでしょうけれど、お湯だけは腐らせまいと毎日新鮮な温泉を運ばせたようでございますな。
※史料により「藤原公経」とも記されますが、本稿では「西園寺公経」とします。