6月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の参〜 山下摩起
1890~1973年
前回の続き。そして露伴が泊まった宿、下大坊には赤ん坊がおりました。同行していた高橋太華が「拙き筆もて」描いた絵に描かれたこの赤子、山下正直くんはその後すくすく成長し、いつしか画才を発揮して描く側へ。伊丹中学校在学時、親に内緒で京都市立美術工芸学校を受験し見事合格、中学を退学して絵画の道へ進み、やがて近代日本画の先駆者と評される竹内栖鳳の画塾の門を叩いて、2年先輩の村上華岳や土田麦僊と切磋琢磨。腕を磨いた後、画家・山下摩耶として独り立ちします。
結婚して2人の息子をもうけ、1927年には今津に家とアトリエを新築、1928年には長女も生まれて順風満帆!かと思いきや、同年、摩耶はいきなり渡欧しちゃいます。その資金捻出のために茶碗と布団以外は売っ払ってしまったとか。
滞在したのは主にパリ。まさにモンパルナスを中心にエコール・ド・パリ華やかなりし頃で、すでに名を上げていたレオナールこと藤田嗣治に有馬筆をプレゼントしたそうです。
ちなみに、神戸を代表する画家、小磯良平もちょうど同時期パリに滞在、何度か会ったようですが、実は摩耶の母方の石野家も、小磯の生家の岸上家も、三田藩九鬼家の家臣。最後の三田藩主、九鬼隆義は有馬好き。何かと縁がありますね。
さて、摩耶はパリでポール・セザンヌに傾倒しちゃいます。セザンヌが大きな影響を与えたキュビズムを吸収、その感覚を自分なりに掴み2年ぶりに帰国した摩耶は、しばらくは洋画を描いていたけど、知己の富田渓仙の影響で日本画へと戻ります。すると、なんと事件が!
1933年、摩耶は左右一対の屏風画「雪」を権威ある院展に出展します。ところが右隻のみが入選するという異例の事態に。現代なら「日本画と西洋画の見事な融合」と評価されそうな左隻は、当時の価値観ではどうやら刺激が強すぎたようですね。摩耶は前衛的な洋画風表現が受け入れられないと悟ったようで、中央画壇から距離を置くようになります。
そして仏画を描きはじめ、特に戦争の時代を経てその傾向が強くなった訳で。過度な装飾を排し、どこかキュビスティックな摩耶改め摩起の仏画は好評で、1958年には四天王寺五重塔の壁画の依頼が舞い込みます。構想に半年、制作に1年以上かけた仏画は、いまも輝きを失っていません。
その五重塔は七代目ですが、前々回ご紹介した安倍内麻呂は初代の塔に仏像を寄進しています。千三百年の時を超え、四天王寺の塔に再び有馬ゆかりの仏様が降臨したのでございます。