12月号
有馬温泉史略 第十二席|教科書に出てくる人、大集合! 有馬を訪ねた近代の著名人 明治時代~昭和戦前
教科書に出てくる人、大集合!有馬を訪ねた近代の著名人
明治時代~昭和戦前
前回・前々回と明治から昭和戦前、つまり近代の有馬温泉のできごとを申し上げましたが、今回はその補足で、この近代という時代にどんな歴史上の人物が有馬温泉にやって来たかというお話でございます。
さてさて、1868年、王政復古の布告から1か月ほど後に三田藩主の九鬼隆義が、1872年には福沢諭吉が有馬へやって来ています。この両名、実は接点があり、その仲介役は日本ではじめてビールを醸造した川本幸民です。三田藩に仕えた川本は、マブダチである緒方洪庵の適塾で福沢と知り合ってその才能を見抜き、それでお殿様の九鬼に繋いだ訳で。廃藩置県で藩主じゃなくなった九鬼は、福沢の勧めもあり実業家に転身、神戸に志摩三商会という商社を立ち上げ大成功!夏は優雅に有馬で避暑しておりまして、そこで出会った宣教師の影響もあり、神戸女学院の前身、女子寄宿学校の創設を支援します。この学校を創立したのは2人のアメリカ人女性でしたが、当時、外国人の土地所有は禁じられていました。そこで、学校の土地の名義人を買って出たのが新島襄でございます。九鬼のオススメがあったのかはわかりませんが、持病のあった襄は妻の八重とともに、少なくとも4度ほど有馬で療養していたようです。
さて、文学界からはどのような面々が有馬を訪ねたかをザッとご紹介しましょう。まずは前回も出てきた幸田露伴。友人の児童文学者、高橋太華と一緒に有馬の下大坊に6日ほど滞在したのは1890年のこと。当時は混浴で、その様子を「我は黄濁の湯の中に居て美からぬ女に肌触らるゝなど極めて恐ろしければ…」などとユーモラスに綴った『まき筆日記』という紀行文のほか、未完の小説『新生田川』にも有馬が登場しています。
田山花袋は小説『布団』でフェチ作家というイメージですが、実は旅行ジャーナリストでもあり、明治末から大正にかけて『温泉めぐり』など5冊で有馬を紹介、でもそんなに良いこと書いていません。
文豪、谷崎潤一郎の作品にも有馬は何度か出てきます。谷崎の定宿は伊藤博文や吉川英治も愛顧した御所坊。その26号室は『猫と庄造と二人の女』に描かれています。
そんな谷崎と親しかった永井荷風も、東京の有馬温泉で遊んだそうです。え、東京?そう、実は1884年に中の坊の梶木家が東京・向島の秋葉神社に旅館、向島秋葉摂州有馬温泉を開業し、お風呂に有馬の湯の花をまぜまぜして、炭酸水や竹かごなど有馬の物産も販売しておりました。東京の有馬温泉は永井のほか泉鏡花、能の梅若実なども訪ねているだけでなく、やがてここを経営するようになる金子勝太郎なる人物は名女形の歌舞伎役者、三代板東秀調なんですよ、粋ですねぇ。
本家本元の有馬温泉に戻って…歌人では与謝野晶子が御所坊から眺めた桜を詠み、吉井勇はいまも有馬の芸妓さんたちに親しまれている歌「有馬の四季」や「風流有馬音頭」を作詞しております。斎藤茂吉も有馬へ来ていますが、これはだいぶ前ご紹介した有馬山の古歌の調査が目的だったようですね。俳人では高浜虚子が大規模な句会を開いています。
画家では竹久夢二ですね。そうそう、有馬出身の画家もいます。四天王寺五重塔壁画で知られる山下摩起は、幸田露伴の話で申し上げた下大坊でまさに露伴が泊まった年に生誕。『まき筆日記』中の、宿の主人の「娘の子かと思はるゝ嬰児」は摩起だと思われます。
有馬で人生の節目を迎えた偉人もおります。蒋介石は1927年、有馬ホテルで宋美齢との結婚を許され、その喜びの中で書いた書が極楽寺に残っています。この時蒋介石はバツ2。美齢の姉の夫は有馬にも来たことがある孫文。と言うことは有馬が、孫文の後継者は俺だ!という蒋介石のスタンドプレーの舞台になった、という見方もできますよね。
この時代、今回ご紹介した人物のほかにも、井上馨、横光利一などなど数多くの偉人名士、文人墨客が有馬を訪ねておりまして、そのエピソードは語り尽くせぬほどでございます。