10月号
水木しげる生誕100周年記念 知られざる 水木しげる|vol.1
ペンネームの由来
水木しげると言えば妖怪マンガの大家で、代表作は「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」と思っている人が多いのではないか。それは水木しげるのほんの氷山の一角で、水面下には驚くべき慧眼、哲学、人生への鋭い洞察が隠されている。
かく言う私も、子どものころは鬼太郎や悪魔くんのみに親しんで、水木しげるのほんとうの魅力には気づいていなかった。しかし、中高生になって、伝説の漫画雑誌『ガロ』に掲載された短編などを読みだすと、そこに描かれた水木マンガの深遠なストーリー、名セリフ、独特の人物描写にすっかり取り憑かれ、以後、50年以上にわたって依存症患者のように水木マンガを愛読し続けている。
その魅力はおいおい伝えていくとして、まず第1回は「KOBECCO」にふさわしい水木しげるのペンネームの由来について語るとしよう。それはまさに神戸に縁があるからだ。
水木しげる、本名武良茂は、大正13年(1922年)に大阪市住吉区に生まれ、すぐに両親の故郷、鳥取県境港に移って、そこで幼少期をすごす。昭和18年に徴兵され、南方のラバウルに派遣されて、爆撃で左腕を失うという大けがをしながら、昭和22年に復員。戦後の混乱期、東京で武蔵野美術学校に通いながら、仲間と配給の魚屋をやったり、輪タクの営業をやったりするが、どうにも食っていけず、傷痍軍人仲間と募金集めの旅に出る。しかし、それもうまく行かず、流れ流れてたどりついた神戸で仲間と別れ、たまたま兵庫区水木通りにあったボロアパートに転がり込む。するとそこの大家が、この家を20万円で買わないかと持ちかけてきた。今の貨幣価値でどれくらいかわからないが、それにしても安い。しかし、よく聞くと、借金が100万円あり、それを月賦で肩代わりしてくれるならという話だった。
それでもアパートの大家になれば、家賃収入が得られる。そこで武良青年は父親に頭金を援助してもらって、このアパートを買い取り、地名から「水木荘」と名付けた。
しかし、思うように家賃は入らず、たまたま下宿人に紙芝居作家がいたので、もともと絵が得意だった武良青年は、自分も紙芝居を描くことにする。そこで紹介されたのが、「阪神劇画社」という名前だけは立派な貸元で、社長兼紙芝居の営業も兼ねていたのが、鈴木勝丸という人物だった。
鈴木氏は見た目は往年のジャン・ギャバンばりの強面で、口調はフーテンの寅さんのようにくっきりしていたらしい。その鈴木氏が、水木荘の大家でもある武良青年を、「水木さん」と呼んだ。「いや、武良です」と何度訂正しても、「そんなことはどうでもいいです、水木さん」と、頑として呼び名を変えなかった。それで仕方なく「水木しげる」を紙芝居作者のペンネームにしたのである。
その後、テレビの普及で紙芝居業界は壊滅し、水木しげるは貸本漫画家になって戦記物や怪奇漫画を描くが、ここでも苦労し、出版社に「アンタの本は売れない」と言われたり、原稿料を踏み倒されたりして、文字通り「赤貧あらうがごとし」の生活が続く。
そんな中、両親に勧められ、39才で見合いをし、その5日後に結婚という慌ただしい形で所帯を持つが、相変わらずの貧乏暮らしが続く。それでも水木しげるはあきらめず、神戸でたまたまつけたペンネームを大事に使い続けて、42才でついに週刊誌デビューを果たすのである。無数の紙芝居作家、貸本漫画家が死屍累々となる中で、ほとんど奇跡のサクセスストーリーがここからはじまるのである。
「冴えてる一言」
~水木しげるマンガの深淵をのぞくと「生きること」がラクになる~
定価:1,980円(税込み)
光文社
PROFILE
久坂部 羊 (くさかべ よう)
1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部付属病院にて外科および麻酔科を研修。その後、大阪府立成人病センターで麻酔科、神戸掖済会病院で一般外科、在外公館で医務官として勤務。同人誌「VIKING」での活動を経て、『廃用身』(2003年)で作家デビュー。