1月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉑後編 川西龍三
川西龍三
「空への憧れは永遠に…世界へ羽ばたく川西龍三の夢」
唯一無二の飛行艇
世界最高峰の性能を誇る日本の救難飛行艇「US-2」の開発製造を手掛ける新明和工業(本社・兵庫県宝塚市)が一昨年、創業100周年を迎えた。その前身は1920年2月、神戸市兵庫区に創設された川西機械製作所だ。繊維機械と並行し、倉庫の一角に飛行機部を立ち上げ、当時珍しかった航空機の開発製造を始めた社長の川西龍三は1928年、この部を独立し、川西航空機を発足した。
「この手で世界に負けない高性能の飛行機をつくる…」。龍三の創業以来のこの信念は1世紀経った今も健在だ。
第二次世界大戦末期、龍三率いる川西航空機が開発した戦闘機「紫電改」は、その卓越した飛行性能で、同社の技術力の高さを国内外に証明してみせたが、実は川西航空機はある特殊な航空技術力によって、航空業界では一目置かれる存在だった。
海の上など水面を離発着する水上機や飛行艇の開発において、独自の技術を磨いた個性的な航空機メーカーとして知られていたのだ。
紫電改で手痛い目に合わされた米軍は、日本の制空権を手に入れると、鳴尾村(現西宮市)や神戸市東灘区の工場など川西航空機の施設を次々とターゲットに定め、執拗な空襲で焼き尽くしていった。そして終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により、川西航空機は解散を命じられ、社長の龍三は公職追放処分(後に解除)となった。
いわゆる「航空機製造禁止令」により、川西航空機は一切の航空機製造を中止され、工場も接収された。
城山三郎の小説「零からの栄光」の中で、このどん底の状態が綴られている。
《会社をあげて飛行機一本に生きてきた川西は、飛行機を失えば、残る何ものもない。工場設備をはじめとする有形・無形の蓄財すべてが零になった上、希望まで失われた…》
だが、龍三には、「誰からも期待されない中で米軍を震え上がらせた紫電改の開発を成功させた自信」があった。
またしても、「零からの出発か…」。龍三はそう思ったが、飛行機に懸ける夢はあきらめてはいなかった。
明朗に和して
1947年。龍三は新会社を立上げ、再出発する決意を固める。
会社の名前は「明和工業」(1960年、新明和工業へと社名変更)。
明と和…。龍三は自分の好きな言葉を合わせて社名をつくった。「明朗に和していこう」という願いを込めて。
飛行機に取りつかれた龍三には新たな野望があった。
「海洋大国・日本には海上を自在に飛行できる高性能な救難飛行艇が絶対に必要である…」。1953年、龍三はこの新型飛行艇開発に向け、国産の飛行艇開発プロジェクトをスタートさせた。
川西航空機時代から培ってきた水上機や飛行艇開発の技術を磨き上げ、遂に1974年、新明和工業は「US-1型救難飛行艇」の初飛行に成功する。
1955年に龍三が亡くなってから20年の月日が過ぎていたが、長年の彼の悲願は叶ったのだ。
同機は海上自衛隊の海難救助機として活躍し、2004年からは、その改良型「US-2」が運用されている。
大ヒットした連載漫画「US︲2救難飛行艇開発物語」には新明和の技術者たちの研究開発へ懸ける苦闘の日々が描かれている。
US-2の性能は現在も世界一と言われる。
波の高さ3メートルでも着水可能な飛行艇は、このUS-2以外、宇宙開発において世界の最先端を行く米露中にも存在しないのだ。
2013年6月、元アナウンサーの辛坊治郎さんら二人が乗ったヨットが太平洋横断中に転覆。US-2が救助に向かったニュースが世を賑わした。
これまでUS-2の存在を知らなかった人々も、改めて日本が誇る飛行艇の航空技術、救難技術の高さを認識したのではないか。なぜなら、US-2でなければ、この救出劇は成功しなかったといわれているのだから…。
天国で、龍三はきっと満足げに、かつ誇らしげにこのニュースを見ていたに違いない。
飛行機開発に夢を懸け、何度もゼロからの出発に挑んだ龍三の信念は100年経っても色褪せていない。
=終わり(次回は菊原静男)
(戸津井康之)