8月号
兵庫県医師会の「みんなの医療社会学」 第122回
安全保障の視点から見た新興感染症パンデミック
─安全保障と感染症はあまり関係がないように思いますが。
多田 実は大いに関係があります。安全保障とは国家国民の安全を脅威から守ることですが、脅威とは軍事的脅威だけでなく自然災害や伝染病も含まれます。つまり新興感染症のパンデミック対応は、国民の生命財産を守る安全保障の重要な分野です。
─確かに新型コロナは社会的・経済的な影響が大きいですよね。
多田 安全保障の専門家のジョセフ・ナイ氏が「安全保障とは酸素のようなものである。失ってみて、初めてその意味が分かる」と語ったように、安全保障については常に歴史から学び未来を想像し、平時から準備しておかなければ間に合わず、失ってみてからわかっても遅いのです。ですから国民一人ひとりがこの危機を理解し、安全保障の視点で対抗策を考える必要があると思います。
─安全保障という観点から見ると台湾の防疫体制は参考になりそうですね。
多田 昨今、新型コロナウイルス感染症の発生は2019年の秋で、武漢ウイルス研究所からの流出も疑われるという報道もありますが、武漢で原因不明の肺炎患者が発生したと武漢市の保健機関により報告があったのは12月8日で、中国当局はその後「命がけの告発」の李文亮医師を処分するなど口封じや情報隠匿を続け、ヒトヒト感染は2020年1月23日の武漢封鎖の直前まで公表されず、感染爆発から医療崩壊となり、その惨状がSNSを通して拡散する事態となりました。このような不透明な状況に呼応し、台湾政府は中国によるウイルス攻撃を意識して動き、2019年末に感染拡大を把握、翌年明けからヒトヒト感染を前提に対応、武漢封鎖前に武漢との往来を停止し、2月6日には中国全土からの入国を全面的に拒否しました。以降の台湾の成功はご存じの通りです。
─一方でWHOは全くあてになりませんでしたね。
多田 WHOは2020年1月30日の「緊急事態宣言」の際にわざわざ渡航制限の必要性を否定し、3月11日に「パンデミック宣言」を出す頃にはすっかり世界中で感染爆発が起こっていました。国家の安全保障は自分たちで考えることであり、国際機関や他国頼みは極めて危険です。水際対策で我々が忘れてはならないのは、台湾と同様に日本の国土が過去に何度もパンデミックの震源地であった中国と隣接していることです。
─中国は過去にも感染症の発生源だったのですか。
多田 有史以来3度のペストの世界的大流行や天然痘、SARS、アジア風邪や香港型などの新型インフルエンザはいずれも中国が震源地とされ、神戸港がある兵庫県でも被害が大きかったスペイン風邪も中国からもたらされた可能性が高いという説があります(図1)。
ですから日本は感染症においても地政学的リスクを有しており、今回の新型コロナウイルスにも発生当初からもっと危機感を持つべきだったのではないでしょうか(図2)。
─新型コロナでどのような悪影響が出ていますか。
多田 さまざまな影響(図3)がありますが、健康面として単なる風邪としては1.5~2.0%と高い致死率と後遺症の問題、突然死や血栓症などの合併症、全身の臓器でウイルスが検出されることなどが気になります。社会・経済へのマイナス面として、若者の就職や雇用への悪影響が結婚と子育てにも波及し、少子化の加速や新たなロスジェネ世代を生み出す危険性があります。歴史学者ニーアル・ファーガソン氏も「パンデミックの影響には逆進性があり、格差や不平等を拡大させる」と述べています。
─裕福な人は貧しい人より被害が少ないのでしょうか。
多田 富裕層ならリモートワークができ、都心部が密で危険なら郊外や別荘地に移住して過ごすこともたやすく、現に株などの金融所得が多い方はむしろ貯蓄を増やしています。さて、今回、社会活動や経済を守るためのパンデミック対応力は、医療提供の総量次第であることが判明しました。経済学者ジョセフ・E・スティグリッツ氏はNHKのインタビューで「新自由主義の考え方で進められてきた病院経営では空の病床や遊んでいる人工呼吸器がないことが評価され、医療から回復力弾力性を失わせた」と述べていますが、そっくりそのまま我が国の現在の医療現場での問題点を表しています。危機に備えた余剰の人員や設備を抱えることは小泉政権以降全く許されない状態になっていますが、安全保障の観点からは医療や教育・基礎研究、国防などの社会的共通資本を新自由主義の影響下におくべきではありません。
─パンデミックに強い社会とは、どのような社会なのでしょうか。
多田 まとめると(図4)のような項目が挙げられます。スティグリッツ氏は「政治の基本単位は国民国家であり、人々が国境の重要性を再認識している」と述べています。国境が確定し渡航制限や不法移民対策が容易であることに加えて、医療において平等かつ経済格差が小さいことが特に重要です。我が国が誇る国民皆保険制度は、今回のパンデミックで再び存在感を増しています。昨年の我が国の年間死者数は前年より1万人弱も減少しており、欧米各国で10~20%の超過死亡がみられたのとは対照的です。
─安全保障的観点から、どのような新興感染症対策が必要なのでしょうか。
多田 重症感染症に特化したICUの増床や病院船の建造、公立公的病院の拡充が特に重要です。食料・エネルギー・医療物資など安全保障に関わる物資の国内生産回帰や自給率向上、国内ヘルスケア産業の保護と人材育成も今後の課題です。また、支持率や国民の人気取りに左右されることなく自動的に発動される「パンデミック安全保障法制」といった法整備も必要なのではないでしょうか。