5月号
火山と共に生きる地へ 神戸から行く島原半島の旅
長崎県東南部の島原半島は、地球の〝体温〟を感じる場所だ。
さあ、温泉の神秘と歴史の因果を訪ねる旅路へ出かけよう。
桁違いのエネルギー
大地が拳を突き上げるような山容の雲仙岳は、胎動を止めない。島原半島はもともと火山島で、度重なる噴火や隆起で九州と陸続きになった。そのエネルギー源となるマグマ溜りは長崎半島と隔てる橘湾の地下深くで蠢いているという。
その熱は温泉という形で我々に恩恵をもたらす。橘湾に面した約1・5kmの海辺に約30の源泉が涌く小浜温泉は熱源に近いため熱量が日本一で、あまりにも過大なため現在はその約3割しか利用できていないという。泉温はなんと105℃。水の沸点を超えるのは塩化物泉ゆえ。泉温にちなんだ105mの足湯「ほっとふっと105」は日本一長い足湯で、潮風を頬に気軽に温泉を愉しめる。卵や野菜などを温泉の蒸気で蒸せる蒸し釜も楽しい。極めつけは「波の湯茜」。視界いっぱいに碧海が広がる開放感は、渚の温泉でしか味わえない贅沢だ。
雲仙岳の中腹にある雲仙温泉もまた、火山の鼓動を感じるスポット。明治期まで「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいたそうだが、まさに温泉の中の温泉だ。マグマ溜りから少し離れるため泉温は小浜より低いが、地面からボコボコと湯が涌き煙たなびく地獄めぐりの風景は、自然のダイナミズムそのもの。その名の通り草木も生えぬ殺風景なところだが、地熱が天然のホットカーペットとなることから、猫にとっては天国のようだ。硫黄泉はその香りが温泉地ムードをかき立て、肌に優しい泉質。森の中の入浴は心身を癒やす。
雲仙岳を隔てた島原では湧水もまた火山の恵み。火山性の地層が水を磨き、伏流水となって街の随所に滾々と。その清らかな水に鯉が泳いで風情を醸す。また、名物のかんざらしも名水があってこその美味なり。
一方で火山は時に災害を引き起こす。1991年、雲仙・普賢岳の噴火による火砕流では多数の尊い命が奪われた。がまだすドームの映像や展示はその現場に立っているようにリアルで、教訓を伝えるとともに悲しみの記憶や自然の驚異を心に刻む。
島原・天草一揆の背景を紐解く
戦国時代、火山性土壌で山がちな島原半島では米の生産拡大が困難ゆえに、領主の有馬氏は南蛮貿易で経済発展を目指し、それと引き換えにキリスト教布教を受け入れた。すると大いに繁栄、秀吉も一目置く経済力を誇るようになる。一方、キリスト教もキリシタン大名の有馬晴信の庇護のもと隆盛となり、日本初のセミナリヨ(西洋学校)がおかれ天正遣欧使節を輩出するなど布教拠点となり、信仰は民衆へも深く広がっていった。
ところが江戸時代になると晴信が失脚、その影響もあり幕府は禁教令を発布した。さらに家督を継いだ直純はキリシタンを弾圧。その後新たにこの地に入封した松倉氏は少ない石高に不相応な規模で島原城を築城、しかも火山地質のため工事が困難を極め、その負担が領民たちにのしかかっていく。
松倉氏の弾圧と圧政の中、1637年の飢饉で民衆が蜂起、10代半ばの天草四郎時貞を総大将に松倉氏を攻め、翌年、3万7千人が原城跡に籠城した。いわゆる島原・天草一揆だ。
幕府は鎮圧後、原城跡の石垣を破壊し埋め尽くしたが、近年の発掘調査で一揆の壮絶な痕跡が明らかになった。遺構が姿を現し、多数の人骨にまぎれ十字架やメダイなども出土した。世界遺産となったいま、海の向こうに天草を望む爽快なこの地で凄惨な戦があったとは信じ難いが、現地ではVRによる再現で往時を偲ぶことができる。
島原・天草一揆の痕跡は食文化にも。島原の郷土料理、具雑煮は兵糧の餅と山海の食材を炊いた籠城の際の食事が起源だそうだ。南島原名産のそうめんは、一揆で荒れ果てたこの地へ小豆島から入植した人々が技を伝えたという(いずれも諸説あり)。
大自然の前で人間はちっぽけだが、その営みは深淵で偉大だ。歴史に「もし」はナンセンスだが、火山なくしてキリシタンはなく、島原・天草一揆もなかっただろう。島原半島は人間と自然の結びつきを再認識させ、旅人を哲学者にする。あなたは大地の鼓動を感じ、何を思索するだろう。
■お問い合わせ 長崎県大阪事務所 TEL.06-6341-0012/島原半島観光連盟 TEL.0957-62-0655