2013年
8月号
最近の宮崎修二朗翁

触媒のうた 30

カテゴリ:文化・芸術・音楽

―宮崎修二朗翁の話をもとに―

土屋文明の歌

出石アカル
題字・六車明峰

「ぼくにはキャリア ― なんてものはないんですよ」とおっしゃる宮崎翁。そこをわたしは無理にお話し頂く。
神戸の話題からは離れるが、この辺りで一度お若いころの話をご紹介しておきたい。
「ぼくは、長崎県の平戸というところのいわゆる三流校の中学を卒業しました。勉強とはどんなことか誰も教えてくれない野放しで、特に数学はチンプンカンプン。のっけから定理や公理を覚えさせられて、なんでそうなんだ?と聞いても教えてくれない。しつこく聞くもんだからしまいに先生が怒ってしまってね。その教師までも嫌いになってしまい、五年間、テストの時には名前だけ書いて外へ出てました」
困った生徒だ。いかにも宮崎翁らしい。
その学校を卒業した翁は、その帰りに渡海船から卒業証書を海に捨ててしまったと。
「断絶したかったんです」
ということで、その先の進路が決まらない。で、一年間受験勉強し、上野公園にあった文部省図書館講習所(現筑波大学)を目指す。
「英語も無知に近かったのでコンサイス辞典を一冊、丸ごと暗記しました。単語を全部覚えりゃいいだろうと浅はかに思ったんですよ」
なんちゅうことを! ですね。
昭和15年、18歳で入学。
「大学出も小学卒も試験さえ通れば入(はい)れたんです。男女不問、制服は今の東京芸大(当時の音楽学校)と同じで、授業料も教科書代も要らない。卒業すれば就職は100%。けど定員は20人ぐらいでした。だから競争率が高く、年によっては三〇倍からの合格率でしたね。同期には後の直木賞作家江崎誠致(まさのり)がいましたよ」
そこで一年間勉強されるのだが、教授陣が凄かったと。半分以上が東大教授。
「そこで初めて詩人というものにもお会いしました。青柳瑞穂。井伏鱒二の親友で、この先生にフランス語を習いました。お孫さんがピアニストでエッセイストの青柳いづみこさんです。ほかにも源氏物語で著名な池田亀鑑など錚々たる教授陣でした」
ここで翁は強烈な劣等感に襲われる。あまりにもレベルの高い教授陣と大学卒を含む同期生の優秀さに自分の非力を思い知らされる。そんな時、岡田温(ならう)講師(後、国会図書館長)に“触媒”についての示唆を受け、「自分はこれだ、これで行こう。人間は偉くならなくてもいいじゃないか。ひと様のお役に立てればいいじゃないか」と思うようになったのだと。凡そ、二十歳にも満たない若者が思いつくことではない。それでも翁は、どうやらここを好成績で卒業されたご様子。
そして決まった就職先が千葉県野田市、キッコーマン醤油の図書館(現・野田市立興風図書館)の立て上げ。「建築設計からみな任せるといわれましたのでね。生意気だったんですね」と。
この時、翁、弱冠十九歳だ。信じられない。
「初任給は当時の小学校教員と同じ38円でした。ここでの二年間は朝から晩まで本を読んでました。これが後で大いに役に立ったんです」
その後、文部省から呼び出されて次に行ったのが中等学校教科書株式会社。
「21歳でした。給料は38円から75円になりました。編集部に入ったんですけどね、他の連中はみな高学歴でした。そこでまた劣等感に…」
コンプレックスの種は二つあったと。
その会社には実業団の野球部があって、翁もメンバーに。後楽園球場で練習したこともあり、観覧席には高射砲が設置されていたことを覚えておられる。ナインのうち5人が東大の野球部出身で、東京都の大会で優勝して新聞に記事が出たのだと。
「5番セカンド、宮崎修二朗と出てました」
わたし「うっそ~っ!先生が野球を?」
「実はね、その試合、ぼくは名前だけで替え玉だったんです。本物は野球の名門早稲田実業出のセミプロ」
あらら、翁にそんな過去があったとは。
もう一つのコンプレックス。
「編集局長は万葉学者として高名な五味保義。アララギの歌人で、斎藤茂吉、土屋文明のあとの編集発行を継がれました。ある日、この人に誘われて飲みに行ったんです。五味さんのお弟子のような社員も一緒に。彼らはみな東大国文出でした。彼らの話がぼくには高度すぎて解らなかった。街に張り出されていたポスターが話題になってね、戦時中の国策ポスターですが、土屋文明の歌が黄色地に直筆で書かれていて、みながそれをさかんに誉めるんです。《貯えて 国の力となるという ありがたき貯金 ただ励むべし》」
わたし、ここで笑ってしまいました。
「あなた、お笑いになる。けど、五味先生ほかの俊英たちが口をきわめて『いいですねえ、なかなか作れるもんじゃないですよねえ』などと誉めるんですよ。だけどぼくどこがいいのかわからなくてね。悶々と、落ち込んでしまいました」
今も解らないとおっしゃる。わたしは全く意味のない単純なプロパガンダの作だと思うのだが、翁は、91歳の今も、もしかしたら自分の知らない境域が詠い込められていたのではないかと疑問を持っておられる。あきれるほどの探究心だ。

最近の宮崎修二朗翁

出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。

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