4月号
100年前、ボーイスカウト活動は神戸で産声をあげた
今年、つまり2012年は、兵庫県のボーイスカウトにとって重要な意味を持つ年である。ボーイスカウト歴史のページをめくって、そのあゆみを振り返ってみよう。
今から155年前の1857年、ボーイスカウトの創始者であるベーデン・パウエル(B-P)が、今年オリンピックが開催されるイギリス・ロンドンで誕生した。B-Pは軍人として活躍し、退役後、野外活動を通じて青少年の健全な育成を目指したが、その嚆矢となった実験キャンプが今から105年前の1905年にイギリスのブラウンシー島でおこなわれ、20名の少年たちが参加した。これをもとに『スカウティング・フォア・ボーイズ』という本が出版され、それを読んだ少年たちが自発的に組織をつくって活動をはじめたことがボーイスカウト活動の源流といわれている。
ボーイスカウトはほどなくして日本にも伝わったが、最初にこれを採り入れたのは神戸であった。1912年にイギリス人の宣教師、ウォーカーが、英米の子どもたち27名の隊を発足させたのが日本におけるボーイスカウトのはじまりだ。つまり、日本の、そして兵庫県のボーイスカウトは今年で創設100年という節目を迎えたということになる。ちなみに同年にはB-vPも来日、日本初のボーイスカウト隊と面会している。
やがて日本人の子どもたちにも活動は広まり、1923年には日本人によるはじめてのウルフ・カブ隊(小学校3~5年生の組織)が、古田誠一郎により須磨で誕生した。その偉業を讃える銅像、ウルフ・カブ像は、須磨浦公園に二本の指を空に高々と掲げて立っている。銅像の作者は神戸を代表する彫刻家の故・新谷琇紀氏。日本ボーイスカウト兵庫連盟30周年を記念し、1980年に当時の現役の隊員をモデルとして制作されたものだ。
その後、日本人によるボーイスカウト団は数多く結成されスカウト活動は広まるも戦争で停滞。しかし、ボーイスカウトは地域に根付いていたために戦後すぐ活動は復活し、1950年に日本ボーイスカウト兵庫連盟を結成。今から60年前の1952年には年少(カブ)および年長(シニアー)のプログラムが実施された。以降は隊員数も増加、活動は活況を示すようになった。
日本ボーイスカウト兵庫連盟は、国際交流も積極的に行ってきた。ちょうど180年前、尾張から江戸へ向かっていた宝順丸が遭難、14ヶ月後にアメリカ・ワシントン州沖に漂着した。この時、乗組員14名のうち生き残っていたのは音吉、久吉、岩吉の3名、いわゆる〝三吉〟のみだったが、彼らはアメリカ・インディアンのマカ族の人たちに助けられ、その後異国の地でたくましく生き、通訳や日本最初の聖書翻訳など活躍した。この史実にもとづき、日本ボーイスカウト兵庫連盟は1989年に現地のシアトル第53隊との交流を契機に記念碑を建立、2006年には宝順丸の精巧な模型を兵庫県の姉妹州である米国ワシントン州ニアベイのマカ族博物館に寄贈した。
私も、この国際交流活動に兵庫県ボーイスカウト振興財団で常任理事として参加し、日本ボーイスカウト兵庫連盟の役員として長年、運営に携わるという光栄に預かった。神戸でボーイスカウト活動は産声をあげ100年、日本人によるはじめてのウルフ・カブ隊がこの地・須磨で誕生して来年90周年を迎える。私が、指導してきた神戸第23団は、ウルフ・カブ像のお膝元の須磨で活動をつづけ、今年創設60年を迎える。
青少年の健全な育成は、未来の社会に必ずや貢献する。ボーイスカウトの精神は、いまの日本、そして世界に求められている。この記念すべき機会に、その使命の大きさを実感する。