11月号
おもしろ有馬学 新島襄・八重は有馬温泉のファンだった?
田辺眞人さん(園田学園女子大学名誉教授)、谷口義子さん(神戸学院大学非常勤講師)講演会より
「八重の桜」時代の神戸と有馬温泉
9月28日の土曜日、敷地内の自家泉源から金銀の湯が湧き出でる有馬温泉の宿、兆楽にて有馬温泉の知られざる歴史文化を学ぶイベント、「おもしろ有馬学 兆楽亭」が開催され、熱心な聴衆が会場に大勢集った。
今回で5回目を迎えたこの秋の兆楽亭は、人気のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重とその夫、新島襄にスポットを当て、この2人と有馬温泉の関係や、激動の幕末~明治の時代の神戸・有馬について、知られざる歴史の扉が開かれた。そのナビゲーターとして、〝神戸のヒストリアン〟こと園田学園女子大学名誉教授の田辺眞人先生と、田辺先生と神戸の歴史研究に勤しむ神戸学院大学非常勤講師の谷口義子先生を講師に迎え、しばし兆楽は幕末・明治へとタイムスリップ。
幕末、夜明け前の神戸
まずは田辺先生が壇上に立ち、「八重の桜」の時代と神戸について、当時の歴史的背景を講演。新島襄が誕生したのは1843年で、八重はその2年後の1845年に生まれているが、それから10年足らずで黒船が来航し、鎖国下にあった日本は開国を余儀なくされ、やがて神戸も開港することになる。
当時は兵庫津が栄えていて、その東は坂本村、今の元町5~6丁目は走水村、3~4丁目は二ッ茶屋村で、その東に神戸村があり、鯉川(今の鯉川筋)から生田川(今のフラワーロード)にはほとんど民家がなかった。「現在も市役所の1階が、裏側では2階くらいの高さになっているのは、当時の生田川が天井川だった名残です」と田辺先生。
一方、新島襄は蘭学を学び、1960年にはじめてオランダ艦を目の当たりにして驚愕、海外への憧れを抱くようになる。しかし当時は正当な方法での海外出国はままならなかったため、密航という形だった。同時期には伊藤博文や井上馨なども海を渡ってイギリスに向かった。
幕府は開国とともに摂海防備をおこない、西宮や和田岬に外国船を睨んだ砲台を建設した。時の将軍、徳川家茂も摂海防備の視察に来たが、その際、勝海舟が神戸の海軍操練所の創設を進言、家茂はそれを即決した。
しかしその3年後、将軍の家茂が死去し、孝明天皇も崩御。徳川慶喜と明治天皇が後継となり、1967年10月14日に大政奉還、倒幕の密勅が同日に出され、世の中は大転換を迎える。
神戸ではその前後、開港に向けて外国人居留地が、鯉川~生田川の間に建設された。西国街道で外国人と大名行列がかち合わないように、御影から大蔵谷まで山側を迂回する「徳川道」も突貫工事で建設されたが、同年12月の王政復古で大名行列が一度も通ることはなかった。年が明けた1968年元日、神戸は開港したが、その10日後には備前藩士と欧米の水兵が衝突する神戸事件が発生。たまたま通りがかった伊藤博文が英国滞在の経験から紛争解決の交渉役となった。田辺先生は「もともと博文は商人になりたかったのだとのちに述懐していて、たまたま立ち寄った神戸でこの事件に巻き込まれ、知人の英国人がいたことで交渉役となり、それがきっかけで政治家になったのです」と裏話を披露した。
田辺先生の朗々とした講義で以上のような歴史的背景を学んだ参加者は、時代のイメージを描きながら谷口先生の講義へ。
神戸と縁が深い新島襄
まずは新島襄と八重の生涯の概説からスタート。新島襄は1843年に江戸で誕生。蘭学や洋式船の航海術を学び、1964年、21歳の時に密出国して渡米し、約10年間米国の大学や神学校で学び、クリスチャンに。1874年に宣教師として帰国し、1875年に同志社英学校を開設した。1888年に同志社大学の設立を発表するも、翌年末に倒れ、1890年1月に永眠した。谷口先生は「襄の本名は七五三太で、娘4人のあとのはじめての男の子だったので祖父が「しめた!」と喜んだことからその名が付いたと、襄本人が書いています」とユニークな秘話も披露。
八重は1845年に会津で誕生。20歳の時に川崎尚之助と結婚するも、1868年の会津城での戦いの前に離婚。八重が男装し、銃を持って戦ったことはドラマでご存じの通り。明治維新後、八重は京都府顧問となった兄の山本覚馬を頼り京都へ出て、襄と出会う。その出会いは、八重の兄の覚馬が同志社英学校の設立に際して襄を支援したことによる。襄と八重は、京都で、日本人で初めてキリスト教式で結婚式を挙げた。襄の没後は日本赤十字社正社員として社会奉仕に努め、日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍し、1932年に永眠した。
続いて襄と神戸のゆかりについてのお話に。江戸・築地にあった軍艦操練所で航海術を学んでいた襄は、19歳の時に西洋式帆船で玉島(倉敷市)まで航海し、生まれてはじめて江戸を遠く離れる旅を経験する。その往路、風待ちのため須磨沖に停泊中、須磨海岸に上陸した。敦盛塚に参拝し、敦盛そばを賞味し、「よほど美味しかったのでしょうか、6杯も平らげたと父への手紙に書いています」と谷口先生。玉島からの帰路は兵庫に立ち寄り、後に湊川神社がつくられる楠公の墓所や生田神社、清盛塚を見物。前作の大河ドラマ〝平清盛〟ゆかりの史跡を巡っていたのが面白い。
渡米した襄は、アメリカン・ボードの宣教師として帰国した。この頃、アメリカン・ボードは神戸を活動拠点としており、1875年に神戸の山本通(現在の神港学園の場所)に女学校(後の神戸女学院)を開校した。当時は外国人による土地所有が認められていなかったため、この学校用地の名義人は襄だった。
有馬は襄の癒しの湯
そして、その女学校を支援したのが、旧三田藩主の九鬼隆義だった。幕末、三田藩に開明的な気風をもたらしたのは、川本幸民である。川本は、洋書を翻訳して日本人ではじめてビールを醸造したことでも知られる。川本は、緒方洪庵の適塾・塾頭であった福沢諭吉を九鬼隆義に紹介。明治の世になり、九鬼は今後どうすべきか福沢に相談したところ、神戸に進出し、ビジネスを始めるようアドバイスされた。九鬼は、家臣の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)や小寺泰次郎(戦後初の公選市長・小寺謙吉の父)らとともに、神戸で志摩三商会を設立。屋号の志摩は九鬼家発祥の地に、三は三田に由来する。
九鬼とアメリカン・ボードの宣教師との接点は、有馬にあった。開港当初は六甲山がリゾート開発されておらず、神戸の外国人は有馬を避暑地としていた。「言うなれば有馬は外国人リゾートのさきがけなんですね」と谷口先生。九鬼は家族とともに有馬に滞在し、宣教師のデイヴィス一家と交流してキリスト教に接近していった。
一方、心臓病やリウマチなどの持病を抱えていた襄は、静養の地として神戸を好み、夏や冬に滞在した。1886年夏には東垂水村(滝の茶屋)の松下万亀方に20日ほど滞在。また、1888年の秋ごろから喘息が悪化したため、12月中旬から翌年3月末まで神戸の諏訪山和楽園に家を借りて長期滞在した。同年の夏に襄は医者から心臓病による突然死の可能性があるとの宣告を受けていたが、11月に同志社大学設立の旨意を発表し、大学設立運動に奔走した。
「新島夫妻が神戸を選んだのは気候の良さだけでなく、村野山人などの有力者に会うのにも便利だったからではないでしょうか」と谷口先生。一度京都へ引き上げたが、約1週間後に再び神戸へ戻り宣教師のダッドレーの家に20日ほど滞在した。
有馬には何回も訪れた
1889年の夏も療養のため東垂水村に滞在していた襄の元へ、一通の手紙が届く。それは甥の新島公義からで、風流な筆致で有馬温泉滞在の様子がしたためられていた。それで思い立ったのか、八重とともに有馬でに向かい、佐野屋という宿にに滞在した。このとき、松尾音次郎(同志社英学校の卒業生)に書いた手紙には「1日に1、2回入浴し、炭酸水を飲んで静かに浩然の気(生命力や活力の源となる気)を養えば、大いに益するところがある」という一文があり、襄と八重の温泉療養の様子がうかがえる。襄は1875年以来、少なくとも4回以上は有馬に来ており、有馬温泉をたいへん気に入っていたようだ。
谷口先生は「すべての道は有馬に通じているのですね」と笑顔で講義を終了。観衆たちはその歴史ロマンを胸に秘めながら、兆楽自慢の料理を愉しみ、金銀の湯に浸かって襄や八重と同じように「浩然の気」を養った。
このような兆楽亭は年に1、2度開催されていて、来年は「黒田官兵衛と有馬」を計画。お問い合わせは旅館「銀水荘別館 兆楽」まで。
■銀水荘別館 兆楽
☎078-904-0666