6月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾七~ 田中 芳男(たなか よしお) 1838~1916
大阪の方で万博が微妙な盛り上がりをみせ、「万博おじさん」や「万博おばあちゃん」がちょっとした話題になっておりますが、幕末~明治にも「博覧会男」がございました。
その人は田中芳男先生。あの牧野富太郎も師と仰ぐほどの博識で、日本の博物館の父であり農産物の文明開化の立役者であり、生物の分類階層に綱・目・科・属・種の訳語をつける、上野動物園の創始、アスファルト舗装の実践、りんご栽培や鮭養殖の普及などなど、その功績を紹介するだけでも博覧会が開けるほどで、神戸にも水源調査や水産物博覧会開催、オリーブ栽培講義などの足跡がございます。
先生は信州飯田の生まれで、18の頃に名古屋に出て尾張藩医の伊藤圭介に師事。余談ですが有馬温泉のある神戸市北区の花、すずらんの学名「Convallaria keiskei」は伊藤の名「圭介」からきております。その後一時郷里に戻るも、伊藤が幕府の洋学所、蕃書調所の教授に招聘されると1862年、江戸に赴きその助手に。同年には師の師、シーボルトと会っています。
そのうち蕃書調所が発展して開設された物産所で舶来植物の研究に没頭するように。すると徳川慶喜の肝いりで第2回万博@パリへの使節団派遣が決まり、先生はその先発隊に大抜擢、昆虫標本をせっせとつくって持ち込み会場に展示するとこれが好評!ところが日本に戻ると大政奉還…でもそのまま新政府に仕え、さまざまな持ち場で殖産興業の仕事に勤しみます。そして1873年のウイーン万博や1876年のフィラデルフィア万博で出展実務を取り仕切り、国内でもさまざまな博覧会を開催。竹籠をウイーン万博で披露するなど、有馬の物産も積極的に出展したのでございます。
そんな田中先生、実はプライベートで温泉に行くのは有馬だけだったそうで、1884年には兵衛で長期療養し『有馬温泉略記』を執筆、1890年頃からもたびたび来湯し、亡くなる前年も湯治をしております。義兄弟の緒方惟準(緒方洪庵の次男)の別荘も有馬にありましたしね。ちなみに娘の一人が嫁いだ関屋龍吉は、本連載其の弐拾壱でご紹介した「答礼人形」の送付責任者でございました。
そして1891年に発行された田中先生の著作『有馬温泉誌』は、有馬の完璧なガイドブックとして人気で再版を重ねました。歴史沿革、泉質効能、名所名産、交通案内からゆかりの文学に至るまで内容は幅広く、さすがは博物学者でございます。
そしともう1つ…これは次回に。とりあえず田中先生にあやかって、大阪・関西万博の後にはぜひ有馬温泉へお越しを。













