4月号

連載 Vol.12 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
六甲開祖の最期
英国生まれのアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)が神戸にやって来たのは明治元年。つまり、彼の日本における充実した人生は、明治とともにあったと言えるだろう。
日本が急速に近代化を成し遂げ、国力を強化させたこの時代の君主は明治天皇だが、神戸沖での観艦式や姫路での観兵式があると、グルームのもとに菊の御紋の招待状が届いたという。ある観艦式後の食事会では「大帝」こと明治天皇の向かいの席が用意され、とても喜んだそうだ。これがいつなのか明記された資料は見当たらないが、神戸沖では1890年に海軍観艦式、1900年・1903年・1908年に大演習観艦式がおこなわれているのでそのいずれかだろう。中でも1903年の観艦式は英国海軍の戦艦と防護巡洋艦が参加し、この前年には第一次日英同盟が締結されている。天皇とテーブルをともにしたのが1903年だとすると、前回ご紹介したようにこの翌年に勃発した日露戦争でグルームが日本を熱烈に応援したのも合点がいく。
さて、神戸ゴルフ倶楽部で一番短い17番コース「Shorty」のティー付近に、巨石が横たわっていた。これを木のコロに乗せて牛に牽かせ、2か月かけて移動。この表面に当時の兵庫県知事で、神戸ゴルフ倶楽部の記念すべき第一打をチョロっと転がした服部一三が「六甲開祖之碑」と揮毫し、裏面には有馬郡長の長有留清の叙文も刻まれ、現在のビジターセンターのある丘に、聳えるように立てられた。
この「六甲開祖之碑」は、六甲山をレジャーの地として開発しつつ環境保護にも努めて「六甲市長」とよばれたグルームを顕彰するもので、唐櫃村のよびかけに有野村と六甲村が賛同し建立されたものだ。その計画を有野村長の河原市太郎から聞いたグルームは当初、「私は神様と違います」と謝絶。しかし、服部知事や神戸市長の坪野平太郎などと話し合って最終的には受諾し、明治天皇崩御の1か月ほど前の1912年の6月23日に除幕式がおこなわれた。グルームの初孫、亀田房夫により除幕されると万雷の拍手。お祝いの餅まきもおこなわれ、グルームが投げた餅を大勢の近隣の村の人たちが笑顔で受け取った。
これがひとつの節目になったのか、66歳となったこの頃からグルームはビジネスの世界から離れ、主に六甲山で悠々自適のシニアライフを過ごす。60歳の時に続き、70歳の誕生日にも神戸ゴルフ倶楽部で祝賀会が開催され、幸せな時間を過ごしたようだ。
しかし、六甲に輝く太陽のようなグルームにも、落日の日がやって来る。1916年の年末、*コーベ・クラブのクリスマス会で少し飲み過ぎたグルームは、帰り道に石段で躓いて右手首を負傷。でもこれは不吉な予兆に過ぎなかった。
そしてまだその傷も癒えぬ翌年正月2日、コーベ・クラブで酒を飲み、またもや石段で転倒してしまう。この時は打ち所が悪く、顔面を負傷し人事不省に。倒れていた彼を友人たちが見つけて夜の12時頃に自宅に運んだが、どうやら傷口から破傷風菌に感染したようで、1週間床に伏せそのまま1月9日に帰らぬ人に。彼の人生を愉快にしてくれた酒が、結果的に致命傷の原因となってしまったのが悔やまれる。
*コーベ・クラブ 後の神戸外国倶楽部、現在の神戸倶楽部。当時、「神戸倶楽部」という日本人名士による別の団体があり、それと区別するため本稿では「コーベ・クラブ」と表記した。

六甲開祖之碑
イラスト/米田 明夫