3月号

神戸ロータリークラブ創立100周年|1924〜2024|数々の困難を乗り越えて歩んだ100年
日本で第3番目のロータリークラブとして設立
1924(大正13)年8月13日、神戸実業界のトップクラスのメンバー19名がオリエンタルホテルに集まった。当時の川崎造船所社長・松方幸次郎氏の呼びかけに応じたもので、全国的にも錚錚たる顔ぶれだった。松方氏は勝山勝治氏(日本郵船神戸支店長)と共に、東京、大阪に続く第3番目のロータリークラブ結成を諮った。異議はなく、「神戸ロータリークラブ」(以下=神戸RC)が誕生し、会長に松方氏、幹事に勝山氏が選出され、9月5日、第1回例会が開かれた。翌年4月15日付で「国際ロータリー」(以下=RI)に1986番として登録された。チャーターメンバーは21名。
続いて、名古屋、京都、横浜、さらに朝鮮の京城、当時の満州の奉天、大連、ハルピン、台湾の台北と一つずつできていき、「日本・朝鮮・満州を合わせて一つの地区として設定してもらいたい」という申し入れが1928年、RI理事会で承認され、第70地区として認められた。第1回年次大会が1929年4月、京都華頂会館で開かれ、この席上で、「くどくどしく弁解や前置きは述べぬこと」「与えられた時間の短いことを言わぬこと」など、現在でも生きる教訓「スピーチ10戒」が提示された。
第2回は1930年5月10日、11日、神戸商工会議所に於いて開かれた。初日、RI会長代理として出席したマルホーランド元会長は「ロータリーは英米だけのものではない。日本の習慣に沿ってやっていただくように」という趣旨のスピーチをした。2日目は第四突堤から吉野丸に乗り込み大阪湾を一周。「神戸らしい洗練された企画だ」と称賛された。
神戸RC創立10周年を迎えた1934年、地区協議会が高野山の金剛峯寺で開かれた。与えられた課題「ロータリークラブを社会一般に正しく認識せしめる方法について」に対する答案として、「まず用語は外国語を避ける。ロータリー標語はやさしい日本語、集会の形式も直訳風を改める」など具体案を挙げた。地区年次大会の神戸開催が予定されていた1936年、「二 ・ 二六事件」が起きる。余興は中止とし、5月2日、3日の大会は懇親本位ではなく会議本位にプログラムを切り替えて開催し、成功のうちに終了した。

神戸RC初代会長の松方幸次郎

神戸商工会議所で開かれた第70地区年次大会(1930年)
戦争に向かう暗い時代の中で
1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日華事変は泥沼化し、RIをはじめ、欧米その他のクラブから和平修復を望む電報が入る。例会でも関心の的となり、戦争色が強くなるとともに、第70地区協議会でも、国際親善をうたうよりも殉国奉公の覚悟が必要とし、出征皇軍への感謝などが議題となった。翌年7月、阪神間は未曽有の水害に見舞われ、7日に小菅金造会長のもとで初めての例会が予定されていたが、同会長の家は流され、会員の消息もわからず、中止となった。この頃から、水害の影響や会員の出征で例会の出席率が悪くなり、家族が出席。その一環として、皇紀2600年に当たる1940年、会員・家族の皇陵参拝が始められ、毎月1回欠かさず続き、のちの木曜会の時代にも引き継がれた。
1937年以降、ドイツ、イタリア、オーストリアで相次いでロータリークラブがナチスによって解散させられ、日独伊3国同盟を結ぶ日本にも及ぶことを予測し、神戸RCはRIを自発的に脱退、1940年9月5日の例会で解散を決め、「木曜会」を発足。名称は変わっても、会員間の友情と奉仕の精神は受け継がれた。
1941年12月8日、太平洋戦争に突入し、1945年になると空襲による焦土化が進む。神戸も例外ではなく、6月5日の東神戸空襲で長年の例会場オリエンタルホテルが炎上。別の会場を転々としながらも、戦中戦後一度も休むことなく例会は継続された。しかし退会者も増え、活気を失う中、8月15日の終戦を迎えた。
戦後、東京RC・小松隆氏が日本のロータリー復帰協議会委員長となり各クラブに復帰を説き、神戸でも木曜会の例会のたびに議題に上がった。
国際ロータリー復帰から充実の時代へ
1949年3月31日、神戸仮RCの創立総会が燐寸会館で行われ、新会長に鈴木岩蔵氏、幹事に百崎辰雄氏を選ぶ。4月13日、正式に国際本部で承認登録され、神戸RCが再スタートを切る。6月2日、チャーターナイトが進駐軍将校やアメリカ副領事、知事、市長をオリエンタルホテルに招いて開かれた。チャーターメンバーは46名。10月30日、六甲の松泉館で家族会バザーも開かれた。翌年6月、神戸RC創始者・松方幸次郎氏が亡くなり、会員一同、その死を悼み冥福を祈った。
1953年、第61地区第2回年次大会を神戸で引き受けたが、当時は千人を超す人数を収容できる場所はなく、接収を解除されたばかりの朝日会館で開催。この席には高松宮もご臨席された。2日目は宝塚大劇場を会場とし、武庫川の河川敷で園遊会を催し好評を得た。神戸RCは第365地区に属すことになり、1957年、第370地区と合同年次大会が、会場に苦慮することなく完成して間もない神戸国際会館で開催された。1959年、神戸RC創立35周年祝賀会がオリエンタルホテルで、続いて1964年には京町に移転した同ホテルで40周年祝賀会が開かれた。
1968年に台湾の新竹RCと姉妹クラブ提携を結び、翌年、青少年交換による国際奉仕活動がスタートする。続いて1973年にはシアトルRCと姉妹提携を結ぶ。同年、平島健次郎氏がRI2680地区ガバナーノミニーに指名され1974-1975年度ガバナーに就任。1975年には、懸案だった「神戸ローターアクトクラブ」が承認され、翌年、認証状伝達式が行われた。
1980年、ロータリー創立75周年を迎える年、記念事業として、ポートアイランド竣工記念「ポートピア81」に施設参加、また平島パストガバナーの尽力により「兵庫ロータリー文庫」が発足する。ポートアイランドの発展に伴い、「新しいクラブを」という機運が高まり、神戸RC拡大委員会が積極的に取り組んだ結果、1984年5月2日、RIから正式に承認され、「神戸南RC」が誕生した。この年、神戸RCは創立60周年を迎え、8月22日、神戸ポートピアホテルで記念例会を開いた。創立70周年を迎えた1994年には、松岡通夫氏がガバナーノミニーに指名された。

戦後、神戸RC再結成のチャーターナイトに於ける来賓祝辞(1949年)

新竹RCとの姉妹クラブ提携式(1968年)

シアトルRCとの姉妹クラブ提携式(1973年)
試練を超えて新しい時代へ
1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生。神戸阪神間の主要な地域が大打撃を受け、神戸RC会員多数の自宅や事務所が被害を受け、オリエンタルホテルの被災でクラブは創立以来の事務局と例会場を失う。加藤隆久会員の計らいで生田神社宮司室に事務局を開設、会員の安否情報の収集に全力を挙げた。2月18日には松岡ノミニーが国際協議会出席のため、米・カリフォルニア州アナハイムへ出発するという慌ただしさだった。ライフラインが少しずつ回復してきた3月初め、同神社会館大ホールで例会再開にこぎつけた。その後、事務局、例会場ともに、神戸ポートピアホテルに移すこととなった。翌年の1996年8月には、国際青年交換プログラムをさらに充実させるため「神戸ROTEX」を発足させた。
震災から1年2カ月を経た1996年3月、第2680地区大会を神戸RCが単独ホストとして開催。戸山祥三会長以下、会員一同、感無量なものがあった。また「神戸ROTEX」は主体を2680地区国際奉仕委員会へ移管し再スタートを切る。1998年2月、地区内16番目のインターアクトクラブを神戸山手女子高等学校に設立。翌年1月には姉妹クラブの新竹RC、4月には同シアトルRCを記念訪問した。
試練を超えた2000年、神戸RCは75周年を迎え、2月10日、神戸ポートピアホテルで開かれた記念例会・祝賀会はお祝いムード一色に包まれた。翌年、ホームページ公開、2005年6月30日、『神戸RC80周年記念誌21世紀への飛躍(2000〜2005)』刊行。2006年、加藤隆久氏が2006-2007年度ガバナーに就任、現在に至るまでパストガバナーとして神戸RCに貢献している。続いて浅木幸雄氏が2018-2019年度ガバナーに就任。
しかし2020年以降、世界は新型コロナウイルスに翻弄される。神戸RCでは危機管理委員会で協議し、神戸市民病院機構へ医療用消耗品及び、「神戸ロータリーふるさと神戸ダブル応援基金」500万円を寄贈。長期の例会休会を経て、オンライン配信などを導入しながらコロナ禍を乗り越えて2024-2025年度、神戸RCは創立100年を迎えた。

神戸の震災復興の激励に駆け付けたハーバート・ブラウンRI会長(1995年)

大震災を乗り越えて開催された地区大会(1996年)

地区大会で記念講演を行った星野仙一氏(2007年)

神戸市民病院機構へフェイスシールドを寄贈