2025年
1月号
『全てのものは魂より生まれる』1990年 RADO Watch Co.Ltd 蔵(スイス)

神戸で始まって 神戸で終る 55

カテゴリ:文化人, 現代美術

大晦日も正月も 未来へ進んだだけのこと

僕の年末年始は特別の「時」ではありません。特別の時に思えるのは、新聞、テレビのせいです。特に年末年始をあおるのはテレビです。昔、テレビがなかった頃の年末年始は、静かに終って静かに始まったように思います。子どもの頃は近所の子どもと凧あげをしたり、カルタをして子どもなりの祝祭気分になったものです。
ところが大人になって、老人になると、年末も年始もどうでもいいことになります。歳をとることが死に近づくことだからです。若い頃だって同じで、死に近づいているのです。子どもの頃はともかくとして、ある年齢になると、年末年始がどことなくうっとうしくなります。
何かに追いたてられて、忙しい気分になります。これは生命力の問題じゃないでしょうか。生き物は生と同時に死に向かって歩むのです。年末年始はそれを無意識に感じているのではないでしょうか。もし、死に対して拘りがなければ、1年の終りも始まりもそれほど意識はしません。あゝ終わったか、そしてまた始まるのか、これだけです。人間の意識からもし死の概念をはずすと、歳のことなど全く関心がなくなります。
以前、南方のどこかの首長が日本に来た時、年齢を聞かれたが、自分は何歳か知らないと言っていました。この人にとっては年末年始などないのです。まあ、年中常夏ということもありますが。
実は毎日が終って、次の日にまた、その毎日というのが始まります。夜を大晦日、朝を元旦と思ったらどうでしょう。昨日より今日は一日歳をとったのです。それを365日という季節の変化の中で考えると、どうしても大げさになってしまいます。
編集の田中さんは、年末年始に「しなくっちゃ……」というのが多く、ヘトヘトになると言います。1日の終りと1日の始めだって、「しなくっちゃ……」が山積していることがありますが、「まあ明日に延ばそう」でその日を終ったことにできます。
正月休みは何もしない数日間と決めたのは、国の政治なんですかね。別に元日に働いたっていいんですよ。元日に仕事なんて縁起でもないと誰が言ったのですか。
僕は大晦日もいつものように絵を描きます。元日も早々にアトリエに行って、昨日の続きの絵を描きます。二日も元日の続きを、こうして国民の祭日など関係なく絵を描いています。大晦日だから描き納めも、元日だから描き初めも無関係です。
紅白歌合戦など見ません。ニューイヤー駅伝と箱根駅伝はビデオを撮っておいて、夜に見ます。
そして僕は1970年から毎日欠かさず、54年間馬鹿みたいに明けても暮れても日記を書いています。何のため?そんな大義名分や目的もなく、ただなんとなく、クセになっているだけです。書いた日記を後日読むというようなそんな面倒臭いことはしません。習慣というクセだから、続いているんだと思います。
僕は正月だから何か特別なことなどしません。送られてきた年賀状に返事を書くくらいで、20枚ほどで止めます。僕の年賀状は、文房具店で買ってきたその年の干支のスタンプをベタベタと重ねて押す、ただそれだけの年賀状です。これだって惰性でやっているだけです。
そのうち正月休みも終って、メールが来たり人が来て、いつもと同じ日になります。正月だからといって、よそゆきの格好をするわけではなく、ただキャンバスに色をベタベタ塗っているだけです。こんな左官屋みたいなことを、これからも一生やっていくんだと思います。
そしていつか絵を描くことを止めます。その時は死んだ時です。死ぬために絵を描いているようなものです。それでいいんじゃないでしょうか。死ぬために働いて、ご飯を食べて、風呂に入って寝る。その繰り返しが人生です。人生はそんなもんで、大したことをするわけでもないんです。
死ぬのが面倒臭いので生きているだけです。それでいいと思いますよ。立派なことをして、社会のために、なんて生きているとシンドイです。僕は社会や人のために生きているとは思っていません。まあ絵を描いていたら余計なことを考えずに済むから描いているだけで、いろいろ世のため、人のためなんて考えていたら生きられません。
では何のため?と言われると、絵のインスピレーションを送ってくれた源泉のためかな。つまり、その源泉の存在のために描いているんだと思います。インスピレーションの源泉への奉納ですかね。神社で巫女さんが鈴をシャンシャンやって踊っているのは、神様への奉納のためでしょう。僕の絵もそうした超越的な存在への奉納のためです。全て、奉納のために   として生きていると思えば、悩みも苦しみも病もなくなるんじゃないでしょうかね。
大晦日も正月も特別のものではありません。時計の針がコトリと音を立てて未来へ進んだだけのことです。そして昨日より今日1日、歳をとっただけのことです。一歩、死に近づいただけのことです。
死は恐怖の対象ではないのです。死こそ正月です。祝祭です。生よりも死の方がもっと高度です。死んだら即座にそのことがわかります。そうなんだ、死って救いなんだ。僕は365日毎日が正月のつもりで生きています。

『全てのものは魂より生まれる』1990年 RADO Watch Co.Ltd 蔵(スイス)

『RORRIM 5』1987年 SWATCH 蔵(スイス)

美術家 横尾 忠則

撮影:横浪 修


1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。

『横尾忠則の人生スゴロク展』始まります!
2025年1月17日(金)より横尾忠則現代美術館(神戸市灘区)にて。
横尾忠則現代美術館

月刊 神戸っ子は当サイト内またはAmazonでお求めいただけます。

  • 電気で駆けぬける、クーペ・スタイルのSUW|Kobe BMW
  • フランク・ロイド・ライトの建築思想を現代の住まいに|ORGANIC HOUSE