10月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の拾九~ 松永 久秀 (まつなが ひさひで) 1508~1577
むかしむかし…三輪明神に愛人、否、愛神ができました。それを知ったヨメの権現さんは怒って家出、否、社出して有馬へ行くと行基にばったり会い「ちょっと聞いて!ダンナが浮気したのよ!アタシもう帰らないから」と鬱憤爆発!すると行基は「ならばここで病人を助けてちょ」と提案し、それで有馬に留まって湯山権現になったそうな。
で、ある日、湯山権現が女の姿で立ってたら、白馬に乗った国司にいけずをされちゃって激おこぷんぷん丸!そんないきさつから有馬では白毛、または馬齢とともに毛が白くなる芦毛の馬は、湯山権現の怒りに触れるので禁忌とされております。
戦国武将の松永久秀はその話を知っていたのでしょう、1560年に三好長慶の弟、十河一存が芦毛馬に跨がり有馬に来ると「その馬はダメー」と御意見。普段からウマが合わなかったのか、あるいは兄の家臣の分際で!と腹立ったのか、久秀の注意を無視して一存が駆けていくと、湯山権現の呪いかコロリと落馬、怪我してお陀仏…。
一存が久秀の忠告に従わなかったのもさもありなん。だって久秀は戦国屈指の悪漢だもん。有馬温泉や湯山権現の恩人の行基が造立に身命を賭した奈良の大仏を焼きやがった、憎むべきヤツなんですよ!
…という歴史観は過去のものでございます。久秀と言えば主君殺し、将軍殺し、大仏焼討の「三悪」で有名です。でも昨今の研究によって、主君とされる三好義興は久秀による毒殺ではなく病死、将軍足利義輝を殺ったのは久秀ではなく彼の息子の久通ほかだということが明らかになっています。大仏火災は三好長逸ら敵方が火を放ったか戦での失火によるもので、久秀が悪意で放火した訳じゃない。しかも、東大寺復興に協力するという事後に認められた久秀の書状も見つかっています。
ではなぜ久秀はヒールにされてしまったのか?それは織田信長が最終的に久秀を攻め死に追いやった後、『信長公記』の太田牛一ら信長サイドが記録にあることないこと書いて彼を貶めたから。裏返せば、久秀は信長にとってそれだけ脅威だったということでしょうか。そしてこれらが江戸時代の学者に史料として採用され、久秀=極悪のイメージが定着したようです。
先ほど申し上げた1560年の有馬の馬の逸話も、その前年に久秀は一存を戦場で助けているので不仲というのは疑問ですし、一存が没したのも実際は1561年ですので、信長方の久秀悪人化プロジェクトによる創作とみていいでしょうね。
悪者から偉人へ、久秀の評価は歴史の「進化」とともに変わってきているのでございます。