8月号
連載 Vol.4 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
神戸でのビジネス①
神戸へやって来たアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)だが、来日直後のビジネスは前途洋々とはいかなかった。
もともとグルームは兄、フランシス・アーサー・グルーム(Francis Arthur Groom)がトーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)らと共同経営するグラバー商会が神戸開港にあたって開業する神戸支店のスタッフとして1868年に来神した。しかし、同年の大晦日付でフランシスはグラバー商会との契約が満了となったがこれを更新せず、翌日付でジェイムズ・ダウ(James Dow)とのパートナーシップでグラバー・ダウ商会を上海で立ち上げて清でのグラバー商会の業務を引き継いだが、2月の社告欄ではフランシスの名が削除されている。
グルームは、兄が去った後もしばらくはグラバー商会の神戸支店で勤務していたとみられる。しかし、戊辰戦争が決着して武器の需要がなくなると同時に、維新により販売先である諸藩から代金の回収が難しくなり、軸の1つであった茶の輸出でも中国人商人との競争に苦戦し、日本の通貨は安定せずで、グラバー商会の経営は思わしくなく、新たに開港した神戸での事業も想定を下回っていた。
そんな状況下の1869年、グルームは寄留していた元町の善照寺の山手側の農地の永代借地権を得ている。神戸中町の喜多屋四郎左衛門から165坪を103両2朱で借りたほか、借地はあわせて4名の地主の土地、都合652坪にもおよんだが、当時は外国人の土地所有が認められていなかったので、事実上購入したと考えて良いだろう。グラバー商会のほかの社員たちも神戸で借地権を得ているので、会社の現状と将来を考えてのことなのかもしれない。
そして1870年7月、グラバー商会は倒産する。グルームはその前月、「Merchant and General Commission Agent」を開業したと告知しているので、このタイミングですでにグラバー商会を辞し独立したと考えられる(ただし、1871年に辞めたという資料もある)。そこには「Office at the Temple, Main Street」とあるので、オフィスは西国街道沿いの善照寺、つまり自宅と同じ場所ということになる。「36ガロンのビール樽を26ドルで販売」などの広告を打っていることから、商売の手始めはビール販売だったようだ。
しかし、ビールの市場には季節性があって冬は売りにくい。個人での商いに限界があったのか、1871年、グルームはグラバー商会時代の同僚のハイマン(Charles Adolph Heimann)に誘われ、彼がモーリヤン(Walter Mourilyan)と共同起業したモーリヤン・ハイマン商会に出資しパートナーとして入社した。業務は茶の輸出で、主にアメリカへ緑茶を輸出していた。アメリカで緑茶というのは意外だが、特に中西部では緑茶にミルクとシュガーを合わせて飲むのが好まれていたという。日本で抹茶ラテやほうじ茶ラテが定着したのは最近だが、アメリカでは150年以上前にすでに日本茶ラテが愛飲されていた訳で、需要もそれなりに大きかったようだ。ともあれ、グルームは居留地1番の建物にあったモーリヤン・ハイマン商会でキャリアを重ねていく。