6月号
【対談】人と人との繋がりを大切に
まっとうなことを、まっすぐと。
県民の命と健康を守る兵庫県医師会のトップとして多忙な毎日を送る八田昌樹会長から、「一度対談したい人がいるのですが」というひと言が。そのご指名の方とは、神戸都心の地域づくりで精力的に活動し、神戸を代表する画家の一人の鴨居玲さんとの交流でも知られている、1932年創業の老舗眼鏡店、マイスター大学堂の久利計一社長。長い間顔見知りではあったが、膝を交えてじっくり語り合うのははじめてという今回、その場にはお互いをリスペクトする空気感が満ちていた。
「ありがとう」の意味
─マイスター大学堂を愛顧するようになったきっかけは。
八田 もう30年くらいのお付き合いになるのですけれど、アイメトリクスが出た時に友達に勧められたのがきっかけです。松本さんというスタッフが上手だということを聞いて、今もずっと松本さんにお願いしています。いつも親切に対応してくれますね。
久利 松本君は今、店長として頑張っています。
八田 最初の眼鏡が良かったもので、これでもう一生ものだと思っていたのですが、ちょっとオシャレをしたいとか、ゴルフの時に使いたいとか、気が付いたらこれだけ増えて。
久利 状況によって使い分けるのが良いんですよ。
八田 最初に作った眼鏡も自宅で使っていますが、この前少し壊れまして直してもらったのですが、当時のカラーの部品が廃番だそうで。それだけ長く使っていたということですね。検査や調整も丁寧で、全国的チェーン店舗とは一線を画しています。そして、買ったり修理したりするたびに、久利さんがお手紙をくれるんですよ。「ありがとうございました」と。
久利 お客様に「ありがとうございました」とお伝えするのは決して買ってもらったからではないのです。数あるお店の中から私どものところへお越しいただいている。そのことについて「ありがとうございました」という気持ちなのです。購入商品の高い安いではない。どんなお客さんでも粗末にしてはいけないのです。そして、母親からは子どもの頃、「あのお客さんのことを忘れたらあかんよ」と言われたんです。私が赤ん坊の頃、そのお客さんが、眼鏡を買ってくれたからお前のミルクが買えたのだと。お客さんあっての自分たちだということです。
八田 お客さんを一人の人間として尊重されているのですね。私も恩師に「患者さんの気持ちに添って治療していかないといけない」と教わりました。医師だからといって決して上から目線でなく、患者さんと対等の立場で、お互いに一人の人間と人間が対話していくことが大事だと思うんですよね。反対に、卑屈になってもいけない。何年か前から病院でも「患者様」と呼ぶところがあるのですけれど、私はそれが嫌いなんです。同じ立場だから「患者さん」だろうと。私はそういう方針です。
久利 先生と患者さんの距離を近づけるという意味もあるのでしょうね。
資格取得はゴールじゃない
─マイスター大学堂は、ドイツ公認のマイスターがいるお店の先駆けですね。
久利 私が小さい頃に父親が「ドイツでは兄弟が2人いたら、1人は家業をコツコツやり、もう1人はよその技術ややり方を学んで帰ってくるんだ」と、たぶんマイスター制度のことを言っていたんでしょう。
─弟の七男さんは1979年に日本人初のマイスターになりました。
久利 当時は高度経済成長の最中で、出店競争が激しい時代だったんですよ。でもそれは違うのではないかと思って、広げるのではなく穴を深く掘っていこうと。
─ドイツでマイスターになるには10年かかるそうですが。
久利 アメリカにもオプトメトリストという制度があって、これは4年くらいで取得できます。でもやるならとことん10年だと。壁が高いほど後が乗り越えて来られないですから。また、日本人が持っているドイツへの信頼もありますね。
─ご子息の将輝さんもマイスターになりました。後継者として頼もしいですね。
久利 息子に後を継いでもらったのは、92年続いてきて八田先生のようにずっと愛顧してくださっているお客さんがいらっしゃる以上、ある日来たら閉業していたという訳にはいかないですし、血を受け継いでいる者が続けるなら安心してもらえるだろうと。技術もさることながら、老舗は血も大事なのです。息子が私の子どもとして生まれて眼鏡屋を継ぐというのは偶然なんです。でも彼がドイツに行ってマイスターを取って帰って来ることで、必然に変えないといけないと思います。
八田 マイスターは試験を2回失敗したらその時点でなれないそうで、厳しい世界ですね。ドイツと日本には、道を極めようとする職人気質があるように思います。
─医師も資格取得が大変ですね。
八田 でも、医学部を卒業し国家試験に合格して医師になったからといってすぐに何かできるわけではなく、本当に最初は怖かったですよ。でも、良い意味の怖さで、実際に患者さんを診て、診断を行い、治療をするというのはいかに怖いことか、そのことを忘れずに緊張感を持って仕事をしています。
─そして、診療科ごとの専門性も高いですね。
八田 マイスターほどハードルが高くないですが。私はもともと消化器外科が専門で、大腸肛門病学会では指導医と専門医にも認定されています。そういう専門医認定はすぐに取得できるものではなく、試験も実習もあります。大腸がんのリンパ節を世界で一番たくさん触ったのは私じゃないかなと思いますが、経験だけではだめで、医療は進歩のスピードも速いですから勉強もし続けないといけません。
久利 資格取得がゴールではなくスタートというのは、マイスターも同じことです。弟がマイスターになったお祝いに、鴨居玲さんに絵を描いてもらったんです。男がバンジョーを弾いている絵ですが、この男は街角で弾いていくらかお金をもらっている。一方で、カーネギーホールでスポットライトを浴びながら弾いている男もいる。マイスターは快挙だ。おめでとう。しかし、紙一重の恵まれない人間が後ろにいるということを、この絵を見て理解してほしいと。そしてこれからがスタートで、決して楽しいことだけじゃないよと伝えてくれたのですよ。
鴨居玲から学んだこと
─鴨居さんとの思い出話は尽きませんね。
久利 最初にいただいた手紙は、今も大切に持っています。大学入学前、店のカウンターに座っていたんです。当時は数坪の小さな店でした。そこに背の高いスラッとした人が、異様な雰囲気でしたけれど入ってきて。それが玲さんだったんです。僕のところに来て「ここんとこちょっと削ってくれ」って。玲さんは慌て者なので、店にいるからプロだと思ったのでしょう。そんなことしたことないけど、父も店員も接客中だったので、しょうがないから一生懸命ヤスリで削ったんです。後日、粗末なレポート用紙に「おたくの若い方の一生懸命が、大切なことだと思います」と書いてあるんです。そのことが私の原点ですね、一生懸命やらなきゃいけないと。
─鴨居さんの絵をご覧になっていかがですか。
久利 どの絵にも三振がなく、必ずヒットがあるんです。だめなものは自分で潰していましたから。玲さんに「どんな絵が良い絵ですか」と訊いたら、「品があるかないかだ」と答えたんです。酔っ払いを描こうか、くたびれた人間を描こうが、品があるかないかだ。人間もそれで判断しろと。
八田 最初見た時に、鬼気迫るものを感じました。そして深刻さがあると言うか。一方でほのぼのとした作品もある。医者の眼から見れば、精神的な双極性障害があるのかなと思いましたけれど。
久利 そういう面もありましたが、人を思いやる気持ちが本当に深い方なんです。息子の中学入学のお祝いに図書券をくださって、そこに手書きの手紙が添えられていたんです。「強くてやさしい人間になるように念じております」と。それをわざわざ持ってきて渡してくださいました。
─印象に残った言葉はありますか。
久利 玲さんに「商売一生懸命やりよ。一生懸命金儲けしいよ」と言われました。そしてその後についた言葉が「どう使うか見せてもらおうじゃないか」。そのひとことが、KOBE三宮・ひと街創り協議会での活動に結びついています。
震災の経験を生かす
─来年、阪神・淡路大震災から30年を迎えます。震災を通し感じたことは何ですか。
久利 やはり常日頃の人間関係ですね。三宮センター街では震災直後、集合をかけていないのに三々五々みんな集まり、その日から夜警団を立ち上げました。警察も機能していませんから、自分らで守ろうと。そういう動きは、普段の付き合いがないと無理ですね。号令をかけなくても、みんながやるべきことを想定して動いたんですね。
─まずは行動と。
久利 あの状況では会議などしてみんなで決めてなんていうのは意味がないことです。現場での状況で、陸奥宗光の「他策なかりしを信ぜんと欲す」、ほかの誰でもこれ以上のやり方がなかったに違いないという意味ですけれど、その言葉を反芻して行動しました。
─非常時は、逐一確認していては間に合わないですものね。
久利 ウクライナの件でも、戦争がはじまって8日後に大使館へ行っています。アポイントを取っていたら断られるだろうとアポなしで、朝一番の新幹線に乗って、震災の恩返しに来ましたと。そしたら「神戸からサムライが来てくれた!」と。それが神戸での避難者受け入れに繋がったのですが、どうしようかとみんなで会議とかしていたらこうはならなかったでしょう。
八田 医師会も、阪神・淡路大震災から多くを学びました。それまでは災害時の医療対応はバラバラでしたが、震災後に兵庫県が主体となってJMAT(日本医師会災害医療チーム)を組織しました。このことは兵庫県の誇りだと思います。
─今年の元日の能登半島地震でも出動したのですか。
八田 JMAT兵庫は2週間あまり活動しましたが、その後が続かなかったのがちょっと残念でした。今回は道路状況が悪く、穴水までは何とか行けるのですけれど、その先の珠洲や輪島などでの活動が難しかったのです。
久利 我々も能登へ支援物資を送りましたが、混乱で荷物が運送業者の金沢営業所で止まってしまったんですよ。こういう時は、どれだけ人間のネットワークがあるかが大事です。その先は現地の知り合いのネットワークを活用して、地元の人たちに営業所へ取りに行ってもらったんです。行政や医師会は対応に忙殺されていますから、それらを頼らずに自分たちだけの力で支援していこうと。被災者だけでなく、現地で支援活動をしている人たちのサポートにも心を砕いています。そういうことは被災しないとわからないことです。
─災害医療で大切なことは。
八田 平時から備え、連携することです。我々は近畿医師会連合や隣の徳島県と災害時相互支援協定を結んでいます。さらに、南海トラフのような広域災害にも備え、宮城県とも協定を結んでいるんですよ。地域間だけでなく、多職種連携の訓練を行って、もしもの時に備えるように今、準備しているところです。震災の経験を生かした対策を進めるだけでなく、それを全国に広げていきたいですね。
「神戸気質」を大切に
─普段からの関係づくりが大切なのですね。
久利 KOBE三宮・ひと街創り協議会の「KOBE夢・未来号・沖縄」も震災がきっかけではじまった活動です。震災時、沖縄から大量かつ迅速に善意の物資が入ってきたんですね。彼らは戦災を経験していますから、被災地で何が必要なのかよくわかっているんです。そのお礼に我々がスポンサーとなって500名の市民を募り、「神戸はこんなに元気になりました」とごあいさつに行ったんです。その後、沖縄の子どもたちに復興した神戸を見せてあげてご恩返しするなど、次の世代の神戸と沖縄の交流を育んでいます。補助はいただかず街のお金だけでやっています。
─街衆の心意気ですね。
久利 三宮センター街は神戸の玄関口であって長男坊であるという意識で、神戸を代表しているという自負を常に持って、当たり前のこととして粛々と活動する。そのことによってご来街というご褒美がいただけるのではないかと考えています。だから「神戸気質」をもっと育んでいかないといけない。神戸の街衆は明るい、スピードがある、そして嘘をつかない。三宮センター街はその先頭に立ってやらないといけないと思っています。
─民間だからこそできることもあるのでしょうか。
久利 パレスチナの紛争でも、行政は政治的にいろいろな問題があるので支援に動きにくいのですよね。だから我々がガザの子どもたちを支援しますと。沖縄のヤングケアラー支援も独自に行っています。
八田 ヤングケアラーはとても深刻な問題ですね。彼らは表に出てこない。だから行政も入って行きにくいので、久利さんたちと同じように行政だけを頼るのではなく、我々も医師会の中でできることは何かを考えているところです。
─活動の継続も大切なことですね。
久利 16年も経つと、沖縄に行った子どもたちが大人になり活動を助けてくれます。人間、まっすぐなことをやっていると賛同者が増えるものですね。将棋の谷川浩司名人が毎年寄付してくださるのですが、振込してくだされば良いのに「こういうお金は届けなければ駄目です」と忙しい中持ってきてくださるんです。歌人の俵万智さんも「何か手伝えることない?」と、夢・未来号のイメージソングを作詞してくださったんです。
八田 人間関係は本当に大事ですよね。今回、久利さんと直接じっくりお話できて、非常に有意義でありがたかったです。これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
八田 昌樹(はった まさき)
一般社団法人 兵庫県医師会 会長
1954年兵庫県明石市生まれ。1973年私立灘高等学校卒業後、1987年 近畿大学医学部大学院修了。2004年八田クリニックを尼崎市にて開設。2020年尼崎市医師会会長に就任。2022年兵庫県医師会会長、日本医師会理事に就任。専門は外科・肛門科。医学博士。日本大腸肛門病学会専門医、指導医。
久利 計一(くり けいいち)
株式会社マイスター大学堂(眼鏡店) 代表取締役
1947年生まれ。1970年同志社大学商学部卒。同年、株式会社マイスター大学堂代表取締役就任。1998年神戸三宮センター街2丁目商店街振興組合理事長就任。2006年KOBE三宮・ひと街創り協議会会長に就任し、神戸市内の養護施設で暮らす子供達を沖縄へ案内する「KOBE夢・未来号・沖縄」プロジェクトを実施するなど、沖縄県と兵庫県の交流促進に尽力する。