3月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の拾弐~ 荒木又右衛門(あらきまたえもん) 1599~1638
昨今では大谷翔平選手にお株を奪われていますが、もともと「二刀流」は宮本武蔵の代名詞でございますな。実はこの最強の剣豪、武蔵に御前試合で勝った男がおります。それは荒木又右衛門なる武芸者。ま、この話は講談師の創り話ですけど、講談の黄金期の幕末から明治にかけて、又右衛門は武蔵より人気で上回っていたとか。
又右衛門が伊賀の地で成し遂げた鍵屋の辻の敵討(かたきうち)に関する作品は枚挙に暇がなく、講談『伊賀の水月』、浄瑠璃『伊賀越道中双六』、歌舞伎『伊賀越仇討』、小説も多数で、映画やドラマでは大河内傳次郎、嵐寛寿郎(アラカン)、片岡千恵蔵、仲代達矢ら大スタアが又右衛門を演じております。ちなみに又右衛門の講談は、速記本が残っているだけで17本もあるそうです。
また、「一に富士、二に鷹の羽の打(ぶつ)違い、三に名を成す伊賀の仇討」とも申します。富士は富士野の曾我兄弟、鷹の羽の打違いは浅野家の家紋=赤穂浪士のことで、鍵屋の辻はこれらと並び日本三大敵討とされており、「一富士二鷹三茄子(なすび)」はこれからきているという説もございます。
と言いながら夢を壊すようで申し訳ないですけど、実は講談や歌舞伎などの又右衛門の物語はフィクションてんこ盛り。史料で確認できるのは1634年11月に又右衛門とその義弟の渡辺数馬が仇敵である河合又五郎を伊賀上野の鍵屋の辻で討ち取ったこと、この敵討の背景に外様大名と旗本の確執があったことくらいしかない訳で。例えば又五郎に殺されたのは数馬の弟、源太夫なんですが、講談や歌舞伎では数馬の父、靱負(ゆきえ)が殺されてその仇を討つ話になっちゃってる。そして有名な「又右衛門の36人斬り!」なんて虚構も虚構、現場に居合わせたのは敵味方合わせて15名ほどだから36人なんて不可能。実際に斬り捨てたのは2人だけなので18倍のマシマシ!
さて、又右衛門と数馬は本懐を遂げた後に鳥取藩に召し抱えられ、敵討の顛末は藩の公式記録として綴られますが、実はここに有馬が登場します。
その文献によると…敵討を目指す又右衛門と数馬は摂津国丹生山田、現在の箕谷や谷上あたりを拠点とし、妻子もここに預けていた。鍵屋の辻の4か月前、又右衛門らは敵の又五郎らが有馬温泉に潜伏中という情報を耳にして、山田を出て山口庄=現在の西宮市山口町に滞在しながら有馬を探索したが残念ながら発見できず…とあります。
もし仮に又右衛門がこの機会に又五郎を見つけていたら…有馬は三大敵討の地になり、講談や歌舞伎、小説や映画の舞台になりまくったことでしょう。そして「一富士二鷹三有馬」、幸せな目覚めを求める客で有馬の宿は連日超満員!なんて…夢みたいなお話はこのへんで。