3月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊼前編 小松左京
SF界のレジェンドの青春…
神戸一中で育んだ創作の源泉
怒涛の青春時代
大震災が起こる度に話題となるSF小説「日本沈没」(1973年)など、今も読み継がれる数々の傑作を生み出した日本SF界の巨匠、小松左京(1931~2011年)。作家として遺した功績は多いが、一方で作家の枠を超え、数々の国際プロジェクトのブレインとしても尽力した〝知の巨人〟だった。
ブレインとして尽力した一つが、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会、通称〝大阪万博〟だ。開催に先立ち発足した有識者らでつくる「万国博を考える会」のメンバーとなり、「万博のあるべき姿、意義」を提言。その知識、視野は広く、湧き出るようなアイデアは壮大で、常に〝人類規模の未来〟を問い続けた作家だった。来年、2025年、再び大阪で万博(「大阪・関西万博」)が開催される。天国から彼はどんな期待を託すだろうか…。
1931年、父が営む金属加工の工場がある大阪市で生まれ、4歳のときに兵庫県西宮市へ転居。その後、尼崎市などで暮らした。第二次世界大戦中と戦争直後の動乱期を兵庫県立第一神戸中学校、通称「神戸一中」(現在の兵庫県立神戸高校)時代に体験している。
1975年発刊の自伝的エッセー集「やぶれかぶれ青春期」(旺文社文庫)の中に、神戸一中時代の青春の思い出が綴られている。
巻末に記された関連年譜が興味深い。
神戸一中時代の彼の年次と日本の歴史を重ねていけば、戦争という大きなうねりの中で彼がどんな思春期を過ごし、この経験が、後の作家人生にどんな影響を与えたかを読者に想像させてくれる。
年譜を見ていこう。
第二次世界大戦が激化する1943年、小松は12歳。この年、中学生以上の学徒の勤労動員が決定する。
《神戸一中に入学。無我夢中の中学生活が始まる》と小松は記す。
翌1944年、小松13歳。軍事教育全面強化発表。徴兵適齢一年繰り下げ(一九歳)発表。
《中学二年生。「雑役」としてかり出されることが多くなる。友人をかばったばかりに、軍事教練の教官に、理不尽な拷問を受ける》
戦況は激化し、小松の学校生活は勉強どころではなくなる。
そして1945年、小松が14歳のときに終戦。
《中学三年生。神戸の造船所に工場動員される。「こっそり映画を見る」味をおぼえる。終戦とともに、いろいろな「闇商売」に手を出す》と過酷な環境の中でも彼のあふれ出る好奇心は止めようもなく、決して屈することはなかった。
「日本沈没」に込めた真意
1945年の神戸大空襲で小松の家も焼夷弾を浴びている。だが、家族不在の中、彼は一人で火を消し止めたという。一人、焦土と化した街を歩いて友人の家を訪ね、そこで彼が見たのは、焼け落ちる寸前の家の前でぽつんと立つ友人の姿だった。
《ちょっとはなれた所で、リュックをしらべていた友人のおふくろさんが、こっちを見て、どういうつもりかニッコリ笑っていった。
「小松さんとこ、焼けなかったの?︱︱よかったわね」しっかりしたおふくろさんだった。︱︱目の前で家が焼けおちようとしているのに、涙も出さず、さばさばしたような顔をしていた。私は、自分の家が焼けなかった事が、妙にうしろめたいような気がして、うつむいた》
8月6に広島、9日に長崎に投下された原爆について、当時、小松は兄とこんな会話を交わしている。
《マッチ一箱の大きさで、富士山もふっとばせるとつたえられた原子爆弾の事は、私たちは戦争がはじまるころから知っていた。――アメリカがとうとう、そいつを完成させたか、と、兄と私は興奮して語り合った。妙な事だが、そのものすごい兵器を、アメリカが完成させたという事についての敗北感はなかった。かえって敵が完成させたのなら、日本も、もうじき完成させられるはずだ、というおかしな確信があった》
彼は戦争という非常時下にあっても冷静に分析していた。友人の家を灰にした焼夷弾や、一瞬にして数十万の日本人の命を奪った原爆など兵器一つ一つを、感情的でなく科学的な知識と目でとらえようとしていた。
小松は、地震で日本が海へ沈む過程を科学的なメカニズムに基づいた緻密なシミュレーションによって「日本沈没」を描いた。
「日本人が国を失い放浪の民族になったらどうなるだろうか?」。それこそが小説のテーマで、このテーマで書くために、後から考えた設定が「日本列島の沈没」だったという。
多感な青春時代、空襲で日本全土が焦土と化すさまを彼は冷静に見ていた。作家となってもこの焼け野原の光景を彼は忘れず、心に刻み、ドン底からの再生の方法を模索し続けていたのだ。
今年元日。能登半島で大地震が発生した。小説「日本沈没」は刊行から半世紀が過ぎたが、彼が遺したメッセージは重みを増して現代人へ迫り来る…。
=続く。
(戸津井康之)