12月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の九〜 九鬼園子(くきそのこ) 1847~1904
有馬温泉と縁が深い三田藩ですが、その最後の藩主にして維新後には藩知事を務めた九鬼隆義は「増税メガネ」、ま、年貢が重くて明治2年に三田藩一揆が起きちゃっていますけど、じゃなくて「聞く力」があった人物だったそうです。例えば「幕府に殉じます!」と宣言したところ、重臣で白洲次郎の爺さんの白洲退蔵の抗議で考えを改めこれを撤回、篠山の福住で新政府軍を出迎えて「ごめんちゃい」します。で、そのお相手は前回ご紹介した西園寺公経の末裔、西園寺公望だったとか。ちなみに公望も晩年、有馬でバケーションしております。また、廃藩置県以降の自身や藩士たちの身の振り方を考える際にも、海外経験豊富な福沢諭吉の意見に傾聴。明治5年春には、2週間ほど有馬に滞在した諭吉としゅっぽり今後について相談しております。
さて、明治5年の夏のこと。アメリカンボードの宣教師たちが有馬温泉へ避暑にやって来ます。さらにJ・Dデイヴィス一家が三田まで足を延ばしたところ、「外国のご婦人が三田にはじめて来たぞ!」と見物人でごった返したそうです。
その人混みの中に洋装の婦人が。それはなんと!九鬼家の奥方、園子。彼女は有馬に戻ったデイヴィスを訪ねます。キリスト教解禁前なのに大胆ですね。そんな愛妻の話に耳を傾けたのでしょうか、そのうち隆義も園子と有馬に滞在し、女中の甲賀ふじを連れ夫婦仲良く毎日宣教師たちの宿へ通うように。さらに秋になると九鬼家はアメリカンボードの拠点のある神戸へと移住。園子は翌年の夏も有馬で宣教師たちとの絆を深めます。
園子の主導ではじまったこの交わりはさまざまな広がりをみせますが、特に彼女の思いが強い子女教育で大きな実を結ぶことに。禁教が解かれた明治6年に女性宣教師のJ・EダッドレーとE・タルカットが神戸・花隈に私塾を開くと園子はここへ通い、明治8年にはダッドレーの三田伝道と園子らの働きかけが契機となって寄宿学校、神戸ホームが開校しますが、これらが現在の神戸女学院の起源となります。そしてその教え子たちが中心となり幼児教育の必要性を訴え、アメリカンボードにより派遣されたA・Lハウにより明治22年に保母伝習所が設立され、これがやがて頌栄短大となります。なお、園子が目をかけた甲賀ふじは神戸ホームで学び、渡米を経て保母伝習所の教員になったそうで。
このように明治初期の有馬は交流の場としての機能を発揮、新しいあれこれのきっかけを育みました。その一翼を担い、湯の街に麗しく華を添えた九鬼園子は、隆義亡き後に父方の天野に姓を戻すも、没後は長男、隆輝の手で三田の心月院へ。彼女が眠るその伽藍の山門は、あの夏を過ごした有馬から移築された秀吉の湯殿の一部です。