6月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.55 落語家
桂 米團治さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。
第55回は上方落語界を牽引する落語家、桂米團治が登場。今年、生誕100年を迎えた人間国宝、桂米朝の長男として、父が再興した上方落語の歴史を振り返るとともに、上方落語の未来について熱く語った。
文・戸津井 康之
撮影・服部プロセス
国宝の父が築いた一門を背負い…
上方落語に捧げた半世紀
『小米朝』誕生秘話
「歌舞伎や能の世界は世襲ですが、落語の世界は世襲制ではありません」
こんな〝まくら〟から、この日の落語は始まった。披露したのは家族愛を描いた人情噺。
演目は『子は鎹』。
一度は別れた夫婦。子どもが二人の仲を取り持ち、よりを戻す物語である。
神戸新聞松方ホール(神戸市中央区)を埋めた700人を超える満員の観客から大きな笑い声を浴びながら話す、円熟味増すその豊かな表情に、父、米朝の面影が重なって見えた……。
貫禄をたたえた66歳。3年後の2028年には、落語家として初舞台に立って以来、50年の節目を迎える。
遡ること47年前の1978年8月。父、米朝に入門したのは19歳のときだった。
このときの秘話を教えてくれた。
「高校3年生のときに落語家になりたいと父に伝えました。どう言われたか?」
苦笑しながら、「父からは、だめだと一蹴されました」と明かす。
「お前は話も下手やし、しゃべりも面白くない。噺家になるのはやめておけ」
意を決して伝えたのに、国民的人気を誇る米朝からそう反対されたのだ。
「大学へは行け」と言われ、地元・兵庫県の関西学院大学文学部へ進学する。
大学生のときに、父の内弟子、桂米二たちから、こう言われたという。
「明君、落語家になるなら大学を卒業してからでは遅いよ」と。
本名は中川明。米朝の弟子たちに囲まれ、幼いころから「明君」と呼ばれ、家族のようにして育った。
「そうは言われても、一度、父からは猛反対されていますからね」
ある日。米朝一門が集い、自宅で車座になって飲食をしながら談笑していたときだった。
「明君。落語家になりたいと言うてたやろう」と自分を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
父の弟子、二代目桂枝雀だった。
「困ったなと思ったのですが、枝雀さんはしつこく何度も私の名前を呼ぶんです」
覚悟を決めて、その場へ行くと、枝雀や朝丸(後のざこば)など父の弟子たちが、代わる代わる師匠を説得してくれた。
「すると父はこう言ったのです。『ひとつ(一席)だけ教えます』と。その表情は苦虫をかみつぶしたようでした」と振り返る。
さらに、その直後。
「枝雀さんが米朝の言葉じりをとって、『ほんなら名前を決めまひょ』と。そう言いながら私の名前について、みんなで話し合いが始まったんです」
約2時間半後。ようやく名前が決まった。
落語家、桂小米朝が誕生した瞬間だった。
ところで、米朝の長男として生まれ、大学生まで落語家としての修業は積んでいなかったのだろうか?そう問うと、今度はこんな秘話を教えてくれた。
「小学2年生のときでした。担任の女性の先生にこう言われたんです。『中川君に今度、教室で落語を披露してもらいましょう』と」
家に帰って話すと、父の弟子たちが喜んで落語を指導してくれた。
「一生懸命、私に落語を教えてくれて。父はこの話を?知らなかったと思いますよ」
教壇の上に座布団を敷いて、小学2年生のときに同級生の前で〝高座デビュー〟を果たしていた。
落語家となる大きなきっかけを作ってくれた、その担任の先生は90歳近くなったが、「先日も東京の独演会へ駆けつけてくれました。〝あの時は下手やったねぇ〟と言われました」とうれしそうに話す。
高校3年のとき、父から「噺家には向いていない」と烙印を押された息子は、実は父の落語を受け継ぐ弟子たちから直に教えを受け、落語家としてのキャリアを小学生のころから着々と磨き上げていたのだ。
父の生誕100年の節目
米朝生誕100年の今年2025年、これを祝う数々の記念イベントが予定されている。
今年1月には、米朝一門とゆかりの深い住吉大社(大阪市住吉区)の境内に米朝生誕100年と没後10年を記念し、その功績を称える記念碑が建立された。
今月21日には、ドラマとドキュメンタリーで構成されたNHKの特別番組「桂米朝 なにわ落語青春噺(ばなし)」が放送される。
このドラマでは、米朝の孫弟子、桂吉弥が若き日の米朝(中川清)を演じ、米團治は、父の師匠である四代目米團治を演じた。
「父は、こんなに太っていませんでしたが」と笑いながらも、「本番で演じている姿を見ていて、だんだん父に見えてきました」と共演した吉弥の演技を称えた。
1995年、阪神・淡路大震災が発生したこの年の春から、米朝のもとで車の運転手など付き人をしながら3年間、修業を積んできた吉弥の姿を、すぐ近くで見守り続けていたのが、吉弥よりも一回り年上の米團治だった。
「落語界は世襲制ではない」と語るが、落語家になること、父が築いた一門を引き継ぐということは、生まれたときから運命づけられた、偶然ではない宿命だったのではないか。
大学2年で落語家となるが、「戦争で自分は自由に勉強ができなかったから、大学は必ず卒業しろ。市会議員になれ」と父から言われた。また、「突然、乗馬クラブへ通え、などとも言われたのですが、今、考えると、それらはすべて、父が自分がしたくてもできなかったことだったのではないか。それを私に叶えさせたかったのではないか。言われた当時はよく分からなかったのですが、今はそう想像するんです」と感慨深げに話す。
〝世襲〟の覚悟
「大正14年生まれの父が生きていたら今年100歳、大阪でラジオ放送が始まってから100年の年でもあります」
若きころの米朝は、ラジオから流れてくる落語を聞いて噺家に憧れ上京し、作家で落語・寄席の研究家、正岡容に入門する。
当時、ラジオから流れてくるのは、衰退していた上方落語ではなく江戸落語だったのだ。
だが、東京で師匠の正岡からこう言われた。
「伝統ある上方落語は今や消滅の危機にある。お前は大阪で上方落語を再興しろ」と。
米朝は師匠から言われた通り、大阪へ戻ると四代目米團治に弟子入りを志願する。
だが、米團治からは入門を考え直すよう、こう諭される。
「上方落語に未来はない」と。
ドラマでは、このセリフを米團治が語る。
「四代目米團治は、父に落語では食べていけない、と言いたかったのでしょう。当時、弟子の米朝が、師匠の落語の仕事を探し、見つけてきていたのですから」
落語家となった米朝は、風前の灯だった上方落語界を立て直す。その活躍は落語界だけにとどまらず、テレビやラジオなどでも売れっ子となり、全国区のスターとして、上方落語の人気を盛り上げ、全国にその名を轟かす。
「先日も吉弥たちとこんな話をしました。今、落語家のなり手が減ってきている。年に一人か二人。お客様も高齢化し、若い人たちが関心をもたなくなってきている。ひょっとしたら、父が上方落語界の立て直しに奔走していたころと、同じ危機的な状況にあるのではないかと」
取材したのは神戸での公演前。前日、米團治は横浜の高座に上がっていた。そして神戸公演の翌日は大阪で昼夜2公演をこなし、その翌週は東京で講談師、神田伯山と共演し、その翌日は同じく東京で桂米朝一門会の高座をこなしていた。
父の米朝が上方落語の再興に奮闘した、その足跡を辿るように、今、自らが一門の先陣を切って上方落語界を牽引している。
2015年3月、米朝は89歳で死去した。
その翌日、米團治は高座へ上がり、米朝の十八番『地獄八景亡者戯』を披露した。地獄に「桂米朝、本日来演」の看板があったり、地獄の寄席に現れた米團治に向かって「ここに来るのは百年早いわ。娑婆でもっと修業せい」と即興で観客を笑わせた。
悲しみをこらえ、父の死をも笑いに昇華させ、遺された者の生きる意味、希望を問うて見せたのだ。
どんな心境だったのかが知りたかった。
「何が起きても公演は休めません。父の死は報道によって多くの人が知っている。それなら、こう演じるしかない…でしょう」
国宝の父を持つ〝世襲の宿命〟を背負った落語家の強い覚悟を感じた。



取材協力:神戸新聞松方ホール
神戸新開地・喜楽館
米團治さんが出演します
大阪放送局 放送100年
『桂米朝 なにわ落語青春噺(ばなし)』
6月21日(土)19:30〜20:42 〈NHK総合・関西地方〉
戦後存亡の危機にあった上方落語を救い、芸を極めた落語家・桂米朝の生誕100年にあたり、生年と同じ1925年に放送を開始した大阪放送局との関わりと共に足跡をたどります。上方落語の豊かな歴史をお楽しみください。

写真左から、笑福亭鉄瓶さん(笑福亭光鶴 役)、桂吉弥さん(桂米朝 役)、桂米團治さん(四代目桂米團治 役)
桂米團治さんの出演情報はこちら
五代目 桂 米團治
関西学院大学在学中の1978年、父である桂米朝に入門、桂小米朝を名乗る。2008年、桂米團治の名跡を五代目として襲名。上方落語の華やぎを大切に守りながら古典落語を探究、独自の世界を構築している。また、自分自身をモーツァルトの生まれ変わりと称し、オーケストラと多数共演。オペラと落語を合体させた「おぺらくご」という新分野も確立。












