10月号
連載 Vol.6 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
オリエンタルホテル
前回、アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)がモーリヤン・ハイマン商会を離れたのは1893年頃としたが、その後のリサーチで1894年の書類で同商会の欄にグルームの名が記されていることが判明したので、ここにお詫びの上、商会を辞したのは1894年以降と訂正する。そして1895年の書類でグルームの名前を見つけることができるのはオリエンタルホテルの欄で、そこに取締役として名を連ねている。その後、1900年には筆頭で名前があるので、この頃社長に就任したと推察される。
オリエンタルホテルは今なおそのブランドが継承されている、神戸を代表する名門ホテルだ。現在の同ホテルのホームページでは創業が1870年となっているが、その根拠は同年の新聞に掲載された広告と思われ、それ以前から営業していた可能性もある。当初はオランダ系の商会が居留地79番で経営していた。その後しばらくについては諸説あるので割愛するが、フランス人のコック、ルイ・ベギュー(Louis Beguex)が1888年頃に居留地80番でオリエンタルホテルを開業し、これを創業とする見解もある。
ベギューの料理の腕は一流で、神戸の洋食のルーツは彼にあるとも言われており、ゆえにホテルは大変繁盛していたようだ。多くの文献ではベギューが帰国することとなり、このような素晴らしいホテルがなくなるのは惜しいとグルームらが買い取ったとされている。しかし、実際のところグルームが経営に参画した1895年時点でベギューは支配人として活躍し、1898年まで在籍している。また、この頃の神戸の貿易業の発展は著しく、輸出入合計金額をみると1888年が約4千3百万円だったのが、1895年に1億円を突破しており、ゆえにホテルの需要も伸びているはずで、ベギューの個人経営からグルームらビジネスマンが加わって企業化されたというのが実際のところなのではないだろうか。
一説ではベギューが去ってから評判が落ち経営が振るわず、グルームが彼の息子を招聘したとあるが、資料上この説は疑わしい。グルームも味にこだわりがあり、より新鮮な食材をと灘の別荘に畑を耕し西洋野菜を栽培、特にアスパラガスは好評だったそうだ。肉類は華人市場から仕入れたが、子豚やひな鳥は入手できなかったので、残飯を餌に別荘で養豚・養鶏まで手がけていた。また、天皇陛下がご来神の際にオリエンタルホテルの日本人シェフが調理したステーキを召し上がったが、そのためにグルームは母国から料理本を取り寄せ、つきっきりで焼き方を指南したとも伝わる。
グルームの経営手腕もあり、ホテルは賑わい手狭となったため、1898年頃に87・88番にも建物を設け拡張する。さらに1908年には海岸通6番の約600坪の土地に、「風見鶏の館」を手がけたゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande)設計の新館が完成。地下1階、地上5階の壮麗な建物は「関西一の洋館」と絶賛された。
しかし、日露戦争後のインフレで建築費が高騰たこと、さらに不況で負債が膨らんだことが重荷となり、1917年、オリエンタルホテルはセメント王として知られる浅野総一郎の東洋汽船の手に渡った。