12月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊹後編 陳舜臣
三度体験した悲劇…その度に誓った神戸の再起
災害に屈せず
《我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかで最も衝撃的であった》
日本文学史上初めて〝ミステリー作家三冠王〟を獲得した神戸生まれの陳舜臣は、2003年に発表した自伝「神戸 わがふるさと」(講談社)の中で、自身の人生を、こう振り返っている。
神戸で生まれ育った舜臣は、14歳のときに一度目の災害に遭遇した。
1938年7月3日から5日にかけて発生した集中豪雨による阪神大水害だ。
《神戸は泥のまちとなった》と彼は表現した。
この大水害で死者、行方不明者の数は約700人に達し、被災家屋は約15万戸にのぼった。実に神戸市の全家屋の約7割が被災したといわれている。
二度目は、第二次世界大戦下。米軍による神戸大空襲だ。
1945年3月17日と5月11日と6月5日。神戸市街地を狙った無差別焼夷弾攻撃による空襲は苛烈さを極めた。この空襲で死者数は7500人を超え、総被災者数は53万人以上。神戸市全土が焼け野原と化した。
《文字通り神戸は灰燼に帰した。三月の空襲で十年あまり住んだ海岸通の我が家は焼失したのである》
このとき舜臣は21歳。思い出の自宅が灰と消えた。
そして三度目…。
《最後は地震である。私は一九九四年八月、宝塚で講演中に脳内出血で倒れ、五カ月入院していた。退院して四日目に地震に遭った。
多くの人に援けられ、私は慟哭の世紀を行き抜いている》
「神戸 わがふるさと」の中の「神戸よ」で詳しく、このときの様子が明かされている。
約5カ月間の入院生活を送った彼は、翌1995年1月13日に、ようやく退院し、杖をつきながら自宅へと戻った。
だが、ほっとしたのも束の間。その4日後のこと…。
17日午前5時46分、神戸市内の自宅のベッドの中で就寝中、大震災が襲った。
《神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ》
舜臣は神戸生まれの作家として、右手などにまひが残る中、神戸市民を励まそうと、また、己を鼓舞しようと、被災後、こんなメッセージを発している。
「神戸っ子」との思い出
実は、舜臣と「月刊神戸っ子」とは、深いつながりがある。
「神戸 わがふるさと」の中にこんな記述が出てくる。
タイトルは「『神戸っ子』と私の三十年」。
《『神戸っ子』は創刊三十周年を迎えたという。これは私が江戸川乱歩賞をいただいて、プロの作家として学んできたのと、おなじ年齢というわけだ》
舜臣の作家デビューは1961年。同年、「神戸っ子」も創刊された。
《『神戸っ子』では、それが三月号にあたるそうだ。私のプロ入り三十周年は、それではいつになるのだろうか? 昭和三十六年十月に授賞式があったが、授賞の通知は、八月四日のことだった。忘れもしない生田神社の夏祭のときで、夕方、店から家に帰る途中、カバンの手提げの部分がはずれてしまった。
―もうサラリーマン生活はやめてよいということかな?》
そう舜臣が直感した通りとなった。
カバンの手提げがはずれた後…。
《…北野町の坂を登って行くと、妻が坂の上で手を振っていた。授賞のしらせがあったと、さすがにすくなからず興奮していた》
江戸川乱歩賞を受賞した「枯草の根」の原稿約500枚を投稿したのは、生田神社の春祭りの日だったという。
《生田さんとは縁が深い。というよりは、神戸では生田さんが一種の暦になっているのだろう》と、彼は回想している。
《『神戸っ子』創刊の年の十二月号に、私は十枚ほどの掌篇小説のようなものを書いたおぼえがある。そして、つづいて、「新春雑感」を書けと言われて、ずいぶん人使いの荒い雑誌だと思ったものである》
創刊以来、舜臣と「神戸っ子」は盟友関係にあったようだ。
神戸で三度の災禍から再起し、神戸からアジアの歴史を見据えてきた舜臣は、生涯170を超える著作をこの世に遺し、2015年、老衰のため90歳で天寿を全うした。
=終わり。次回は作家、田辺聖子。(戸津井康之)