11月号
浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 第23回
中右 瑛
女人哀史
武勇の誉れ高い巴御前
巴(ともえ)御前は、源氏の風雲児・木曽義仲の愛妾で、女武者として武勇の誉れ高く、義仲の出兵に参加、たびたの戦には、巴は義仲に従って奮戦したが、近江の国・粟津の戦いで義仲はあっけなく戦死、巴はその後、姿を消した。
巴は源平時代の、男まさりの女傑として名高い。『平家物語』には、巴は「なかなかの美女で、色白く髪長くして、容顔まことに美麗なり。有難き勁弓精兵(つよゆみせいひょう)弓矢打物取っては如何なる鬼にも神になると云ふ一騎当千の兵なり」と伝えている。
木曽義仲(1154-1184)は、頼朝や義経とは従兄弟。平家全盛の目を逃れ、山深い信州木曽の里で駒王丸の名で育つ。長ずるに木曽次郎義仲を名乗る。巴は義仲の乳母子の仲といわれる。
伊豆で潜伏していた頼朝(1147-1199)が源氏再興を願って旗揚げをした治承4(1180)年、義仲も以仁王(もちひとおう)の院宣を受けて、時は今と平家追討の兵を挙げた。義仲、時に27歳。巴は24歳という。
信州一円を制していた笠原頼直を破り、越後の豪族・城長用(長茂)の大軍を横田河原で打ち破り、信州一円を平定し、義仲の名を上げる。この横田合戦のとき、巴は女だてらに敵の武将七騎を討ち負かすという女武者のエピソードの名声は、天下にとどろく。また倶利伽羅谷では4、5百頭の牛の角に燃えた松明を取り付けて平家陣営に追い込んだ。
この火牛の夜襲攻撃の奇策は、義仲の名を高めた。
その勢いで京の平家本陣に迫り、平家を都落ちさせてしまった。しかし、後白河法皇を幽閉したことから頼朝との対立が激化し、頼朝の命を受けた義経軍に迫られ、近江国粟津にて討ち死にする。巴は義仲の最期まで追従した。
生け捕られた巴は鎌倉に連行されるが、武勇を惜しまれ、和田義盛に嫁し、豪傑となる朝比奈三郎義秀を生んだと伝えられている。
別説では、義仲亡きあと巴は忽然と消え、全国を流浪し、ここかしこで義仲の霊を弔い生涯を終えた…という。
源平合戦に登場する女性の末路は、出家して仏の御手にすがる決断をすることが多いが、女傑といわれた巴は女々しいことは一切ない。
が、巴もまた、運命にもてあそばれた女人哀史である。
神戸佳族のアート展
『中右 瑛 抽象アート・小品展』
■会期 11月28日(木)~12月1日(日)
11:00~18:00
■場所 アートギャラリーテン
(元町商店街三丁目
「元町カルチャー倶楽部」6F)
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。