2025
01.08
松田小牧さん 堀内正美さん

WEB版・スペシャルインタビュー|
被災者支援に挑み続けた〝闘い〟の記録…
二人三脚による執念の出版

カテゴリ:汎用

堀内正美さん
松田小牧さん

 〝神戸在住40年〟の俳優、堀内正美さんが、阪神・淡路大震災での被災経験や、そこから得た災害へ備える知恵、災害時に生かす提言などを綴った初の著書「喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に」(月待舎)を上梓した。「〝震災もの〟は売れない」という理由で複数の大手出版社が出版をためらう中、取材を通じて知り合った元通信社記者、松田小牧さんが「それなら私が出版したい」と一人で出版社「月待舎」を神戸市内に創設し、その1冊目として刊行した。
   

神戸の〝一人出版社〟から

 「震災から30年の節目に、自分がこれまで経験してきた震災についての活動の記録を残しておかなければ…。そう思い立って本を出版しようと決意しました」
 震災直後からボランティア団体「がんばろう‼神戸」などで被災者支援の活動に取り組んできた堀内さんは3年ほど前から原稿を書き始めた。
 ところが、本を出版してくれる出版社を探したが、「震災ものは売れない」と断られ続け、出版界の厳しい現実を突きつけられる。
 そんなとき、約10年前に取材で知り合った松田さん(当時、通信社の神戸支局記者)が、現在、フリーのノンフィクション・ライターとして神戸で暮らしていることを知る。
 「堀内さんから相談を受け、原稿を読ませてもらい、すぐにこれは本にすべきだと思いました。しかし、その方法が分からず、東京や大阪などの出版社と交渉したのですが、やはり、どの出版社も、ただ、震災ものは売れない…の一点張り。それなら自分で出版社を作ればいい」と一人で「月待舎」を創設することを決めた。
 「神戸市役所で当時の震災を知る職員は年々減り、もう、知らない世代の方が多い。兵庫県庁職員も同じ。今年は震災から30年ですが、今後、どんどん減っていきます。風化させないために、今、語り伝えていく必要がある」と堀内さん、松田さんは危機感を募らせる。

震災が変えた人生

 「神戸で生涯暮らそう。そう覚悟したのは神戸で震災を経験したことが大きな理由のひとつです」と堀内さんは打ち明ける。
 この本では、なぜ、堀内さんが家族で東京から神戸へ引っ越してきたのか。なぜ、神戸に滞在し、震災支援の活動を始めたのか。なぜ、今でも、被災者支援の活動を続けているのか。そのすべてが綴られている。
 東京で俳優として活躍していた堀内さんは1984年、知人の勧めで神戸市内の薬局を経営するために家族で神戸市へ引っ越してきた。
 著書のなかで、こう記されている。
 《東京・世田谷で映画監督の子として生まれ、東京で俳優としてのキャリアを歩んできた僕。縁もゆかりもない神戸にやってきて、阪神淡路大震災で世界が一変した》
 神戸で暮らして11年が過ぎたころ。
 薬局の経営も軌道に乗り、また、東京の映像関係者からの信望が厚かった堀内さんは、京都・太秦の撮影所など関西地方で撮影する映画やテレビドラマに欠かせない俳優の一人として引っ張りだこになっていた。
 〝薬局経営者兼俳優〟としての生活が安定した頃…。
 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。
 早朝。神戸市北区の2階建て住宅で就寝中、大きな揺れを感じた堀内さんは布団から飛び起き、家族の無事を確認した後、すぐに行動を起こす。煙が見えた長田区へ車を走らせていると、倒壊した家の下敷きになっている人たちが大勢いることを知る。堀内さんは車から降り、下敷きになっている人を救出する住民の活動に加わる。
 倒壊した梁の下に男の子が挟まれ、母親がその子どもの手を握ろうとしている現場へ駆け付けたとき。火が燃え広がり、目前まで迫っていた。だが、母親は逃げようとしない。
 《このままでは子どももろとも焼け死んでしまう。僕らは彼女を数人がかりで必死になって押さえつけた……どれだけ僕らを振りほどこうとしても、僕らは決して彼女を離さなかった。そして、火の届かない場所まで、彼女を運んだ》
 母親の命を救うことはできたが、子どもの命は救えなかった。この残酷な現実を前に、堀内さんは慄然とする。
 《僕が覚えているのは、自分の目から流れ出る滂沱の涙だけだ》

ボランティアの先頭に立って

 震災からしばらく経ったころ。堀内さんは二人の息子に、こう意志を確認した。
 《「神戸はこれから大変だよ。東京に帰るという選択肢もあるけれど、君たちはどうしたい?」と聞いてみたところ、子どもたちも「神戸が好きだ。神戸に残りたい」と言った。その言葉を聞いた僕は、「よしわかった。お父さんもできる限りのことはやるからな」と伝えた》
 堀内さんは震災前から担当していたラジオ関西の朝の番組のなかで、被災者の悩みを聞き、励まそうと考えた。そしてラジオ局から被災者たちに向かって呼びかけた
 《「みなさん、困りごとがあれば、この番号に電話をかけてくださいね」とラジオ関西の電話番号を伝え続けた。そして、「がんばろう神戸。私たちのまちだから」と何度も何度も呼びかけた》
 この堀内さんの呼びかけが、ボランティア活動へとつながっていく。
 《気が付けば、ボランティアの数は数十名、数百の規模に達した。「生きていてよかった、生まれてきてよかったと言える神戸を作るために一緒にがんばろう」
 こんな思いから、僕たちの活動を、「がんばろう‼神戸」と名付けた》
 「がんばろう‼神戸」は合言葉になって全国へ広がっていく。
 《震災発生後ほどなく、市民ボランティア・ネットワーク「がんばろう‼神戸」を立ち上げた僕。ホットラインを立ち上げ、たくさんのニーズとシーズをつなげた。ボランティアもたくさん来てくれた。延べ人数では実に1000人を超えている》
 堀内さんはボランティア団体の先頭に立って、被災者へ救援物資を送り届ける支援活動に取り組み、2002年にはNPO法人「阪神淡路大震災『1・17希望の灯り』」(通称「HANDS)を創設する。
 「震災の被災者だけでなく、事件や事故の被害者の遺族も支援したい。苦しみや悲しみは皆、同じだから」と堀内さんは支援活動の範囲を広げ、このNPOの理事を13年間、務めあげた。
 さらに、神戸市役所に隣接する公園「東遊園地」に、全国から〝希望の火〟を集めたガス灯「1・17希望の灯(あか)り」を設置する活動の先頭に立った。
 2000年、建立されたモニュメントに刻まれた碑文は、堀内さんが考えた文章だ。

《震災が奪ったもの
 命 仕事 団欒 街並み 思い出
 たった1秒先が予知できない人間の限界…
 震災が残してくれたもの
 やさしさ 思いやり 絆 仲間
 この灯りは奪われたすべてのいのちと生き 残ったわたしたちの思いをむすびつなぐ》

 「これは避難所で出会った人たちから聞いた言葉なんですよ」と堀内さんが教えてくれた。

成果も失敗も教訓として

 現在、放送中のNHK連続テレビ小説「おむすび」の舞台のひとつが神戸だ。
 この神戸編のドラマに堀内さんが俳優として出演している。
 「震災を経験した中華料理店の店主という役。NHKの知り合いのスタッフから、『実際に震災を知っている堀内さんに演じてほしい』と頼まれたら断れませんよね」
 今も堀内さんが俳優活動を続ける理由も、「この震災経験が大きい」と言う。
 「支援活動を続けるなかで、被災者やその遺族の方たちから『堀内さんがテレビや映画に出ていたら、私たちはうれしい。それが誇りであり、励みになるから』。そう言われたら出ないわけにはいかないんですよ」と。
 堀内さんと二人三脚で出版までこぎつけた松田さんは、「ようやく出版できましたが、多くの人に読んでもらう仕事がまだ残っています。出版社経営は、まだまだ手探りの状態ですが、地元の書店などを周り、協力してくれる人を増やしていきたい」と話す。
 30年間のボランティアとしての活動を振り返り、堀内さんは「成果もありましたが、失敗も多かった。それらすべてを後世へ伝え、教訓としてもらえれば」と期待を込めた。

文・戸津井康之
取材協力・トアロードデリカテッセン

松田小牧さん 堀内正美さん

『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』
堀内正美 著
本体1,800円+税  月待舎

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