2025年
1月号

有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾弐~ ジョン・ギューリック John Thomas Gulick 1832~1923

カテゴリ:文化・芸術・音楽

前回のつづき。シドニー・ギューリック博士が1903年に有馬で進化論に関する講義をおこなった背景には、同じく宣教師にして進化論生物学者でもある彼の叔父、ジョン・ギューリック博士の存在が浮かび上がります。そもそもギューリック一族には来日した人物が多いのですが、江戸時代にも日本と交流したオランダからの移民だったからなのかもしれません。
ジョン博士はハワイ生まれ。幼くして病で眼を悪くしますが、16歳の時にゴールドラッシュのカリフォルニアへ渡って荒くれ男たちと金を掘り、20歳の頃は未開のミクロネシアで伝道なのか冒険なのかわからぬ日々を送るというワイルドな一面も。その後神学校で学び、30歳で日本へ向かうとまだ幕末、禁教令ゆえ清へ撤退。12年後の1875年に再来日すると時代は明治になっていて、最初は神戸、その後大阪や新潟など15年ほど日本で活動。帰国後はオハイオでの執筆活動を経て故郷のハワイで余生を送り91歳で大往生。
さて、ジョン博士が所属したアメリカンボードは有馬を避暑地とし、三田とも深い繋がりがございます。ジョン博士の伝記に載っている彼に関する人物の書簡から、明治初期の有馬やその周辺の様子がわかります。例えば後添いのフランシスは、有馬は「保養地として大変有名」で夏は「観光客で一杯」と書いています。父のピーターは、神戸から有馬に向かう道すがらの村では男も女も「生まれたままの裸同然」で「女の体がこれほどむき出しになっているのを見たことがない」んだって。マジか?
生物学者としてのジョン博士は貝類が専門で、ハワイの陸貝から進化論を読み解く研究は現代でも高い評価が。日本の貝類学の祖の平瀬與一郎や、その弟子にして「貝の牧野富太郎」こと黒田徳米とも交流して大きな影響を与えました。ちなみにこの両名は淡路・福良の出身で、西宮市貝類館は黒田の学術資料がベースになっているそうで。
ジョン博士は有馬でも陸貝を探し、ある日、直径が4~5cmもある大きなカタツムリを見つけます。一説によれば…彼はこれを採取して母国へ。すると、亡くなった5年後の1928年、貝類学者のヘンリー・ピルスブリーの論文によって、これが模式産地を「Arima, Settsu」として新種記載!ジョン博士の息子、アディソンが父を讃え、ギューリックという名を込めて学名を「Euhadra eoa gulicki」と命名したとか。有馬ゆかりのこのでんでん虫、和名は「ギュリキマイマイ」と申しまして、近畿や四国に分布していますが個体数が急減しているので、捕獲するまい!持ち帰るまい!

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