1月号
連載 Vol.9 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
日本初のゴルフ場
1896年のある日、トーニクラフト(Thomas C.Thornicraft)、ミルウォード(G.Millward)、アダムソン(J.Adamson)が六甲山のアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)の山荘にやって来た。そして4人で談笑しているとふとしたことからゴルフの話になって、それじゃここでやってみようじゃないか!ということになり、これが日本でゴルフがはじまったきっかけだといわれている。アダムソンはゴルフ発祥の地、セント・アンドリュースの出身なので、もしかしたら懐かしい故郷のことを語り合っているうちにゴルフの話題が出てきたのかもしれない。
もちろんこれは通説の1つであり、クリケットを引退しアラフィフとなったグルームが「アメリカゴルフの父」ジョン・レイド(John Reid)にならい、最初からゴルフをやる腹づもりで六甲山の土地を借りたという見解もある。また、グルームが自身を含め、開港の頃に来神した外国人たちが老齢にさしかかる中、競技的なスポーツばかりのKR&ACを辞した後の新たな娯楽としてシニアでも楽しめるゴルフを思いついたという説もある。
いずれにせよゴルフをプレーするためにはコースが不可欠だが、チェーンソーもブルドーザーもない訳だから、一朝一夕には叶わない。しかも当時の六甲山上は荒れ地だ。グルームは1898年頃からハートショーン(J.Hartshorn)、コーンズ(A.J.Cornes)、ギル(E.H.Gill)、ロビンソン(W.J.Robinson)ら友人の協力も得ながら、地道な手作業に取り組む。腰にまで達する雑草や笹を鎌で刈り取り、根深き灌木を引き抜き、重たい岩を取り除き、冬になると薮を野焼きして灰を芝の肥料とした。そして1900年の夏にようやく山の斜面を整地して2坪ほどのティーグラウンドとグリーンが設置できるようになり、1901年5月、4ホールながら日本初のゴルフコースがついに完成する。
これにて国内でゴルフができるようになったと外国人たちは喜び大人気となったが、やはりホール数が少ないので拡大を求める声が。そこで竹谷清介の所有地や唐櫃村の共有地を借り受け拡張していくが、事業規模が大きくなるので神戸ゴルフ倶楽部を創設して法人化することになり、1903年2月に居留地の商工会議所でその設立総会を開催し、26名が集う中、トーニクラフトが会長、ミルウォードが主将、グルームが名誉書記に選任された。ちなみにもう一人の言い出しっぺのアダムソンは、マクマートリー(McMurtrie)とともにコース設計を担当している。グルームの提案で入会金を不要としたため倶楽部の登録者は122名にものぼり、そのリストには外国人に交じり川崎造船所の松方幸次郎や住友財閥の住友吉左衛門(十五代・西園寺公望の実弟)の名も記されている。
程なく9ホールのコースが完成し、同年5月24日には神戸ゴルフ倶楽部の開場式が。英領事のホール(J.H.Hall)、神戸市長の坪野平太郎ら50名ほどの紳士淑女が見守る中、兵庫県知事の服部一三が記念すべき第一打を放つもチョロリと転がるだけで、万雷の拍手の中、それをグルームが拾い上げた。そのボールは現在も神戸ゴルフ倶楽部にて、クラブハウスのマントルピースのオーナメントとして大切に保管されている。