6月号
「鵯越」とはどこなのか?
神鉄ハイキングでの講座と鵯越駅の解説板での解説
自然と歴史の宝庫、神戸電鉄沿線で開催されている好評の神鉄ハイキング。4月29日は義経の史跡を訪ねる「鵯越の坂落とし」コースに多くの人が参加したが、そのスタート地点、西鈴蘭台駅前の公園では兵庫・神戸のヒストリアン、田辺眞人先生のレクチャーがおこなわれ、350名余りが参加した。
源平合戦のハイライトの1つ、一谷の合戦。田辺先生は平家・源氏それぞれの陣容から解説をスタート。平家側は東は生田の森=現在の生田神社に平知盛、西は須磨一谷に平忠度が陣を構え、その間に十万余騎を配した。一方の源氏側は都から兵を2つのルートで送り、源範頼は5万余騎を従えて西国街道で直行。かたや源義経は1万余騎の軍勢で北回りのコースを進んで篠山の南から小野、三木に至る。ここで義経は7千余騎を土肥実平に任せて塩屋を経て西側から須磨へ向かわせ、自身は3千騎ほどで鵯越から進軍し北側から平家軍の中央部へ攻撃を仕掛けたと考えられると田辺先生。
ところで、その攻撃の起点である鵯越はどこなのか?「鵯越道」とは古来より藍那から現在の神戸電鉄鵯越駅付近を経て夢野に至る道のことだ。しかし『平家物語』で「一谷の後なる鵯越」という記述があることから、鵯越が須磨の後ろの山だという解釈もある。
そんな疑問に田辺先生はズバリ斬り込む。もともと一谷とは鉢伏山の麓の谷、須磨の狭いエリアの地名だが、「『平家物語』や『東鑑』では、生田から須磨にかけての広範囲の戦場全体についても『一谷』と記されているんです」と田辺先生。ゆえに一谷は狭義では須磨の一部だが、広義では現在の神戸の中心地を示していると、具体的な古文書の記述をもとに解説した。鵯越の位置が広義の「一谷の後」と解釈すると、『平家物語』の記述に不自然はない。そのようなお話を聴いてから参加者たちは義経ゆかりの道のハイキングを楽しんだが、しばし時空を旅した気分になったことだろう。
そして今回のコースの終点、神戸電鉄鵯越駅では新たに、田辺先生による解説板が設置されている。今回の講演とハイキングは、その完成記念。また、神戸芸工大学の学生による巨大な義経のイラストも登場。源平合戦、そして義経ゆかりのスポットとして、より人気を集めそうだ。