11月号
連載 Vol.7 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
スポーツとKR&AC
日本初のゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部を創設したことから、わが国のゴルフの父として知られるアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)だが、嗜んでいたスポーツは幅広かった。むしろゴルフは中年になってからで、娘の岸りうの回顧録によると水泳、ボート、登山、クリケット、シューティングも大変好きで、特に水泳は晩年まで愉しんだという。また、「ベッピンサン」と命名した愛馬で競馬にも関わっていたようだ。ゴルフについては機会を改めることにして、今回はそれ以外のスポーツとグルームについて紹介しよう。
グルームの母校、マールボロカレッジはスポーツが盛んな校風で、特にクリケットでは数々の名選手が輩出している。グルームもすぐれたクリケットプレーヤーだったようで、来神の翌年の1869年、10月16日に神戸ではじめて開催された本格的なクリケットゲーム、イギリス軍艦オーシャン号との試合に神戸居留地外国人チームの主将として出場し、第1イニングで14点を獲得し大活躍で勝利に貢献している。これで盛り上がって、この3日後にグルームら有志が集いクリケットクラブの結成を目指すようになり、程なく兵庫クリケット倶楽部が発足。しかしグラウンド確保の問題から頓挫し、1870年に改めて神戸クリケット倶楽部が結成され、グルームは長い間その主将を務めたようで、同年の最終戦では最多得点を叩き出している。
グルームはその後も神戸で数多くのクリケットの試合に、さまざまなチームのメンバーとして出場している。時には独身者チーム対既婚者チームの試合でプレーし、すでに結婚し子どもまでいたのになぜか独身者チームで大活躍している。仕事の都合で横浜に拠点を置くようになった1884年の途中からは、横浜外国人チームに移籍。ベイスターズの本拠地、横浜スタジアムのルーツである横浜彼我公園クリケットグランドでもプレーしたと思われ、時には古巣の神戸クリケット倶楽部とも戦い、42歳になる1888年まで現役で競技を続けた。
一方で野球にも興じ、1880年の6月と11月のアメリカ海軍戦艦リッチモンド号乗組員との試合で、神戸居留地外国人チームのメンバーに名を連ねている。しかし、同じくバットでボールを打つクリケットのようにはいかなかったようで成績は芳しくなく、いずれも大敗を喫している。
神戸の外国人のスポーツクラブと言えば、来年で創立155年を迎える神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(KR&AC)だが、グルームはその行事でさまざまなスポーツに挑戦しており、1870年にはクオイト(蹄鉄投げ)の初戦でハンター(Edward Hazlett Hunter)に勝利しベスト4入り、フット・ペーパー・ハントという鬼ごっこのようなゲームでも2位になっている。翌年の水泳大会では潜水と着衣200ヤードで優勝、走り高跳びと2マイル徒競走で2位、1872年は300ヤードハードルで優勝、1876年には神戸で初めておこなわれたラグビーの試合、KR&AC対イギリス軍艦モデステ号戦でスリークオーターバックとして勝利に貢献し、1877年の潜水でも30代にして39ヤード(約36m)を潜って優勝した。スポーツマンのグルームは、草創期のKR&ACの主力メンバーとしても存在感を示していたという。