1月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~(57)前編 東山魁夷
東山魁夷 画家をあきらめた少年時代…心救われた神戸の自然
神戸で育んだ画家への夢
戦後の日本を代表する画家、東山魁夷(1908~1999年)と神戸との縁はとても深い。人生で最も重要な人格の形成期である3歳から高校を卒業するまでの少年期を魁夷は神戸で過ごした。彼が画家となる決意を固めたのも神戸だった。
《私の少年時代が幸福であったと今でも思えるのは、神戸には山があり海があったからです。須磨の海岸もその頃は文字通り白砂青松でした》
この文章は1957年に刊行された魁夷の自伝「わが遍歴の山河」(新潮社版)に綴られた一文である。
現在も世界で圧倒的な人気を誇り、国民的日本画家として不動の地位に君臨するが、その華々しい経歴からは、今では想像もできないぐらい、魁夷が画家として成功するまでの道程は険しかった。
1908年、横浜市で生まれた魁夷は3歳のときに、家族で神戸市西出町へ転居して来る。父は横浜の大手商社が前身の船具商の支店長をしていたが、会社を辞め、神戸に小さな船具店を構え経営していた。 だが、父は真面目に働かず、祖父が遺した財産を浪費し、家では母に辛くあたった。
《楽天家で、殆んど感情だけで生活している父と、悲しみを理性で抑えているような母、この極端に異質の二人の間には、相當深刻な問題があって、まだ小学校へ入ったばかりの頃から、私は人間の間にある愛憎と、又その業とも云うべきものの姿を見て来たのです》
「わが遍歴の山河」のなかで魁夷は両親の不仲に悩みながら育ったことを赤裸々に打ち明けている。
性格が正反対だった両親の仲は険悪で自宅では喧嘩が絶えず、彼は次第に心を閉ざしていく。
1915年、魁夷は神戸市立入江小学校(現在の市立湊小学校)に入学。その前年、1914年に第一次世界大戦が勃発していた。
幼いころ、家の中に引きこもっていた魁夷だったが、小学生になると、自宅近くの海や山などに出掛け、自然に触れ、その景色を目に焼き付けることで、心の安息を得ていた。
魁夷が語るように神戸は海や山に囲まれた自然の宝庫だ。そんな環境で育った魁夷が、生涯にわたって自然を描き続ける画家となることは運命づけられていたのかもしれない。
《いつも私を慰めてくれたのは神戸をめぐる自然であり、又私にとって救いとなったのは絵に対する精進の道を選んだからのことであったと思います》
魁夷は1921年、兵庫県立第二神戸中学校(現在の県立兵庫高校)に入学する。
しかし、中学2年に上がると、突然、原因不明の頭痛や発熱を患い、中学3年の一学期の途中から休学し、淡路島の知人宅で静養することになる。
海辺近くに建つ知人宅に身を寄せ、大自然のなかで暮らすことで、しだいに魁夷の病は治り、心身ともに癒されていく。
彼は幼いころから、度々、この淡路島を訪れ過ごしていた。
《淡路島――私がよく夏休みの数日を過していた志筑の砂浜へはお盆の頃になると、大海亀が卵を産みに上って来たり、洲本への断崖を危げに馬車が通っていた時代ですから、今から考えるとすべてがのんびりしていました》
こんなふうに淡路島の自然に癒されながら。
「絵描き」への葛藤
《絵を描くことは幼い時から好きでしたが、その方面に何の関係もない家でしたから、画家になろうと決心して美術学校を受けるまでには、幾つかの曲折がありました》
美術界に多大な功績を遺した魁夷が、幼いころには画家になる夢をほぼあきらめていたことが、この自伝のなかで記されている。
《小学校の頃は、大人になったら偉い人になって、母に楽をさせてやりたいと思っていました。その偉い人とは、絶対に画家ではなくて、何か市民的な職業の成功者を頭に浮かべていたのです》
今で言うと、成功した実業家か、あるいは大企業のビジネスマンなどであろうか。
「絶対に画家ではなくて…」と彼が吐露した本音は衝撃的だ。
さらに、中学時代、魁夷が抱いていた〝画家像〟が興味深い。
ある日、中学校の裏山で魁夷が神戸の自然を写生していると、突然、崖の向こう側から男が現れ、魁夷の傍に来てじっと描くところを見ながら、魁夷に話しかけてきた。
《「君は絵描きになるのか」とぶっきら棒に尋ねるのです。
私は突然の問いに一寸たじろぎましたが、「僕は絵描きになんかならないよ。食えないもの」と答えました》
この後、男が投げかけた言葉が、魁夷の胸に突き刺さる。
《「君、野良犬だって食っている。餓死しないだけにはな。人間が食うために生きるのか」》
心の底では画家に憧れる中学生に、この男が放った辛辣な言葉は衝撃だった。
そのとき、「野良犬はごめんだ」と魁夷は思いながらも、「画家になりたい」という夢は、もう抑えようがなかった。
神戸の自然の中で写生中、魁夷は画家になろうと心に誓った。
=続く。
(戸津井康之)