KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年11月号
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彼女が10歳の頃、自宅近くに、よく通っていた「甲子園」という名のお気に入りの飲食店があったという。《ある年の夏、私はその店の前を通り、殆ほとんど四十年ぶりでおばさんと会った。おばさんは店先でコカコーラを売っていたが、私が声をかけるより早く、私を見つけ、一瞬、ポカンと口を開けてから、叫んだ。「まあ、佐藤さんのお嬢ちゃん!」私は十歳の少女に立ち返り、「おばさん!」と叫んで絶句した。そのとき私は、ふるさとはここに、そっくりそのまま残っていた、と思った。私の眼に涙が溢あふれた》大正から令和に至る一世紀をしたたかに生き、第二次世界大戦下の貧困から戦後の日本の復興の様子をつぶさに見続け、その姿を小説やエッセイなどで詳細に活字で刻みつけてきた日本を代表する作家がまた、一人、この世を去った。=続く。(戸津井康之)買って用意している。私たちはプラタナスの下を海へ向って歩いた。誰もいない砂浜に坐すわって用意の饅頭を食べたこともあるし、水族館の中で魚を見ながら食べたこともある》また、宝塚歌劇団に憧れていた神戸の女子高生らしい思い出も、こんなふうに記される。《女学校時代、私の友達に宝塚狂がいた。当時の女学生には宝塚が唯一の娯楽であったので、宝塚大劇場はいつも満員。よい席に坐すわるためには、暁の四時から行って行列に並ばなければならないのであった》幼少期から女学生時代の佐藤の思いを綴ったエッセイを読めば、お転婆で男勝りで快活な佐藤の性格は、兵庫で過ごしたこの時代に培われたものであることが分かる。ふるさと〝甲子園〟への思い佐藤が少女時代を過ごした〝ふるさと〟を去る日がやって来る。《私が嫁入りをするのを待っていたように、父母は慌ただしく家財道具を処分して、二十年住み馴なれた鳴尾を離れたのであった。私はふるさとへ行くたびに、その家の前に立ってみる。その家は今はある大きな農機具の会社の社長さんの住居になっている》佐藤は結婚して鳴尾を離れた後も、自分が愛したふるさとをたびたび訪れていた。だが、その変わり果てた姿をこんな風に嘆いてもいた。《今はもう私は海へ行くのが怖おそろしい。海はあまりに無残な姿となり果てた。白砂青松と謳うたわれた瀬戸内海の海を、ふるさとを離れてからの私は、どんなに人に自慢して語ったことだったろう。「あの海岸は、こんな、関東の海岸みたいな、黒い、汚い、ゴロゴロ石の海岸やないのよ」私は何度もいった。「波の穏やかさが関東とちがう……それに遠浅で……」だが今は海はもう、なくなってしまった。そこは荒々しいコンクリートの防波堤がつづいているばかりで、波は黒く濁り、油やゴミを浮かべて悪臭を放っている》55

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