神戸で送った青春1969年、『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を、2000年、『血脈』で菊池寛賞を受賞するなど長年にわたり数々のベストセラー小説やエッセイを手掛けた作家、佐藤愛子(1923~2026年)が、今年4月に亡くなった。102歳だった。作家時代の長くを東京で過ごし、都内で亡くなったが、彼女が大阪市住吉区帝塚山で生まれ、幼児期に現在の西宮市へ引っ越し、神戸の甲南高等女学校に通い、青春時代を神戸で過ごした〝神戸っ子〟であったことを、ご存じだろうか。《私のふるさとは兵庫県の「鳴なるお尾」である。私がそこにいた頃は「武むこぐんなるおむらあざにしはた庫郡鳴尾村字西畑といった。だが今はそこは西にしのみや宮市という》人気シリーズのエッセイ『これが佐藤愛子だ 二』(2002年、集英社)の冒頭、「失われゆくふるさと」というタイトルのエッセイのなかで、西宮で暮らしていた当時の多感な少女時代の話がこんなふうに綴られている。《私の育った家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあった。大阪から阪神電車で帰ってくると、車掌が、「こーしえーん、こーしえーん」と眠たげな声をはり上げるあたりから、青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高く、私の家の三階が見えたものだった》彼女の実家の最寄り駅は阪神電車の甲子園駅。甲子園球場の近くで暮らしていたのだ。大正時代に生まれた佐藤は、昭和37年に開戦した第二次世界大戦を、この甲子園球場の近くにあった自宅で体験している。《それは戦争が負けいくさになりはじめた頃のことだ。大鉄傘は取り去られ、兵器になるのだった。私の近くの家でも鉄の門もんぴ扉を供出させられた家があった。私の家では青銅の門燈の笠かさを供出した。私の暗あんたん澹とした青春時代はそのへんから始まっていたのだ》厳しい戦時中の思い出をこう綴る一方で、のどかで淡い学生時代の思い出も明かされる。《いったいあの頃の私たちは、何をそんなに話すことがあったのだろう。登校も一緒、学校でもいつも一緒にいて、それでもまだ話し足りないで道草をくった。たっぷり道草をくうために、甲子園より二駅西の西宮駅でわざわざ下車し、市場で饅まんじゅう頭を神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編佐藤愛子 失われゆく故郷への想い…甲子園、神戸で過ごした若き日の記憶54
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