有馬温泉歴史人物帖それだけじゃなくて、大阪天満宮の別当としても活躍。日本一長い商店街の名前にもなっている天神橋は、由己さんが秀吉をベタ褒めする謡曲「吉野詣」を制作した恩賞として架橋が認められたそうです。また、若かりし頃の出いずものおくに雲阿国は由己さんのアドバイスでブレイク、その結果歌舞伎の祖になった、みたいなお話が記念碑に刻まれててございます。そんな由己さんは三木の大村の出身で、京都の相しょうこくじ国寺で修行し、秀吉と出会った頃は地元の寺院、金剛院に戻って頼音房と名乗ってございました、ガオー!ですから前回ご案内の藤原惺せいか窩とは同郷。しかも惺窩さんの師匠、文ぶんほうそうじょう鳳宗韶と由己さんはともに仁にんじょしゅうぎょう如集尭に学んでいたので同門でもあるのです。惺窩さんが相国寺へ逃れたのも、秀吉の養子の秀俊に重用されたのも、仕掛け人は由己さんだったのかも。いつしか二人は親しき友となり、九州の名護屋でも親交を深めたとか。「セイ有馬ゆかりの豊臣秀吉は今年も、受信料を取る放送局の日曜夜の主役でございます。400年以上前の人物なのに人気が衰えないのは、キャラ濃厚な人物伝が昔から受け継がれてきたからでしょう。その代表格の『太閤記』は秀吉の死後に著されたもので、大村由己が記した『天正記』を土台としています。つまり有馬の恩人の秀吉の恩人ですから、由己さんは有馬にとっても恩人なのでございます。『太閤記』で儲けてきた講談師のみなさんも、由己さんに足を向けて寝られないですね。僧侶だった由己さんは三木合戦が勃発した1578年頃から還俗して秀吉に仕え、『天正記』などの記録をまとめたり、歌の代作をしたり、ご機嫌取りの能を創作したりとチーム太閤のソフト面で重要な役割を果たした人物。たびたび従軍し、本能寺の変直後の軍議にも出席していたことからもだいぶん信頼が厚かったようでございます。カちゃんちの近くにペンギンのいるカフェあるよね?」「あ、お芋のケーキが美味しいところね。ゆーこさん、こんど一緒に行こ!」なんて、玄界灘を眺めながら三木トークで盛り上がってたりして。さて1595年、59歳の由己さんは体調を崩し秀吉に湯治を命じられます。それを裏付けるのは『惺窩先生文集』の「梅菴老人、受相公之命、為湯浴治病、将赴馬山」という一節で、梅菴は由己さんの雅号、相公は秀吉、馬山は有馬のこと。が…由己さんの紀行文では行き先が城崎になっていて、惺窩さんも後で勘違いを認めています。でも、三木と京や大坂を結ぶ街道の拠点で秀吉の支配下にあった有馬を、由己さんが訪ねていないはずはないのでございます、記録は見つかってないけど。~其の四拾参~大おおむら村 由ゆうこ己 1536~1596109
元のページ ../index.html#109