志村の俳優としての人生が大きく動き始めていた。豊岡の友人で、後に東宝撮影所長となる森田信義の紹介で、劇団「近代座」の俳優となり、プロの俳優の道を歩み始める。森田は神戸の出身。後に森田の誘いで志村は東宝映画に出演するようになり、黒澤明監督作品の常連俳優となっていく。志村が俳優として活躍するきっかけにも〝神戸人脈〟が深く絡んでいるのは興味深い。志村の人生を振り返ってみると、なぜか、節目節目で〝神戸人〟と出会っているのだ。俳優の仕事が軌道に乗り始めた志村は結婚を考えるようになり、お見合いをする。そして一人の女性と運命の出会いをする。女性の名は山田政子。後に志村の妻となる政子は神戸市で生まれ育った女性だった。志村と見合いをしたとき、政子は百貨店「神戸大丸」に勤めるOLだった。志村と神戸との〝不思議な縁〟はまだ続く。=続く。(戸津井康之)父は三菱生野鉱業所の冶金技師で、志村は口銀谷の生野鉱山の社宅で育った。1911年、地元の生野尋常小学校に入学。中学生までこの地で過ごし、1917年、旧制神戸一中(現在の兵庫県立神戸高校)へと進学する。志村は神戸一中へは下宿先から通っていた。2年に進学したころ。冶金技師の父は宮崎県延岡市へ単身赴任で転勤。生野に残っていた家族は神戸へと移り住むことになり、一時期、肺病を患って休学していた志村は、家族とともに神戸で暮らしていた。その後、家族が、父のいる九州へと転居したことに伴い、神戸一中での進級が2年遅れていた志村は、神戸から宮崎県の旧制延岡中学(現在の県立延岡高校)へと転校する。神戸一中時代。それも卒業の前までという、志村が神戸で過ごした期間は短かかったかもしれないが、実は神戸とは、その後も深いかかわりを持つことになる…。志村の兄、尊夫は、神戸一中から慶応大へと進み、後に横浜ゴム社長などを歴任。実業家として活躍している。幼いころから秀才だった兄と比べられることを志村は嫌い、反発しながら育ったという。そんな反骨心を彼は育んでいた。幼いころから肺を患い長い闘病生活を強いられた経験を持つ志村は、旧制延岡中学時代は、自由を謳歌するように、文学に親しみ、同人誌に参加して詩を書いたり、また、ボート部に所属し、有力選手として地元で名を馳せた。旧制熊本五校(現在の熊本大学)の受験に失敗した志村は九州から関西へ戻ってくると、大阪の関西大学に通いながら、大阪市水道局で臨時職員として働いた。そんなころ、彼は演劇と出会う。志村が俳優となるきっかけを作ったのが、大学の文学科の講師だった劇作家、豊岡佐一郎だ。志村はアマチュア劇団を創設する際、豊岡に演出してもらい、自らは舞台監督を務めていた。演劇にのめり込んだ志村は欠勤が続き、大阪市役所を退職、大学も中退する。しかし、このころ、37
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