かなか思い通りにいかない。だからヤーメタ!は、ただ物事を放棄しただけです。次々と変化を繰り返して前進する人は、今、取り組んでいることに徹底した結果です。飽きることが脳の働きとして良いことだと、もし学者が言っているとしたら、それに従うなんて人がいたら、その人はアホです。「飽きる」ということは、執着を解くということです。つまり、拘りを手放し、自由になるということです。執着は自由を奪い、人間の行動を凍結してしまいます。ある意味では、執着の寸前まで行って、その先、身動きがとれずガンジガラメになった時、パッと執着を捨てられるのです。執着というのは、決していいことではありません。一時、「今、事がありますが、この故事が言わんとするのは、いくら辛くても辛抱すれば、やがて報われるという教えです。それを最初から飽きることを目的としているようなことなら、お母さんから「あなたは飽きっぽいんだから」と言われても仕方ないでしょうね。このエッセイの6月号で、「ピカソが次々様式を変化させるのは、飽きるからだ」と書きましたが、ピカソは徹底的に、たった今取り組んでいる様式に没頭します。もうこれ以上不可能だという時に、その様式をポイッと捨てます。そして次の様式に移ります。これは、やりつくした結果、飽きてしまったのです。飽きるということは、こういうことです。ちょっと手をつけたまま、な『飽きる美学』という本を出版しました。読者からの反響の大半は、「なんだ、飽きるということは悪いことじゃないんだ」と、短絡的に受けとめた方が随分多かったように思います。「飽きる」ということは、物事に熱中して、とことんやりつくした結果、限界に来てしまったその時、自然に湧いてくる感情です。ある意味で、徹底的に努力し、これ以上できないというところで、手放すことによって、目的が開花するのです。ちょっと手をつけただけで、思い通りにならない、だからヤーメタ!じゃ、単にその場から逃げただけのことです。最初から飽きることを肯定してしまう人は、単に怠け者に過ぎないのです。「石の上にも三年」という故Tadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る ピカソの多様性と『飽きる美学』14
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