ザインした亀倉雄策で、僕をこの会社に推薦してくれたのは、田中一光という若手No.1のデザイナーです。この会社に入社した時の給料は、神戸時代の1万円の月給から、いきなり4万円にはね上がりましたが、同僚の宇野亜喜良は8万円、田中一光は20万円の高級取りです。この会社に4年ばかりいましたが、給料は一向に上がりませんでした。実力主義の会社だから、実力のなかった僕は、入社時とあまり変化がありません。でも子どもが産まれて家族3人、そこへ郷里から母を引き取って、六畳一間のアパートに4人暮らしです。誰かひとりが外出していないと、せま過ぎるために息ができません。だから僕は、いつも外出していました。同時に、田舎(西脇市)の父の死です。妻は僕に代わって、西脇に、母の面倒を見るために帰っていました。今思うとよくやってくれたと思います。まだ、海のものとも山のものともつかない、駆け出しの無名デザイナーの時で、しかも、父の死と同時に、上京したばかりで会社を辞めてしまったのです。まぁ、ロクな物を食べていないくせに、それでも東京で一人暮らしの僕は、ストリップ劇場に、活力を得るために三日にあけず通っていました。もうバカとしかいえません。しかし、その底をつく生活の終焉に、突然就職が決まったのです。日本デザインセンターという超有名デザイナーの集団会社です。会社のオーナーのひとりは、東京オリンピックのポスターをデ僕は30歳まで超貧乏でした。そのくせ、「武士は食わねど高楊枝」なんて、エラそうに貴族振った生活をしていました。21歳になったばかり、まだ大人になりきれていない時に結婚しました。ポケットに入っているわずかなお金が僕の全財産だった時代の結婚です。本当に、いつもポケットの中に全財産を突っ込んで歩いていたのです。そんな貧乏亭主と、よく結婚してくれたなぁと、今の妻を尊敬しています。どこから工面したのか知りませんが、僕は妻の経済力に便乗していたのです。そんな貧乏な若者が、22歳の時に上京しました。渋谷の六畳一間のオンボロアパートにころがり込んだ時は、会社の給料は最低最悪の金額でした。しかも上京とTadanori Yokoo美術家横尾 忠則撮影:横浪 修神戸で始まって 神戸で終る お金がなかった。でも、自由があった。16
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