今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から ◯ 駑馬十駕子どもたちの、将棋を指す駒音を聞けなくなることは淋しいことではあるが、このほど子ども将棋教室講師を引退することにした。年齢のこと(82才)もあるが、もう十分にやってきたという矜持もある。初めは地域の将棋大会の審判をした時に、同時に子ども将棋教室を催したのだった。40年ほども昔のことだ。その後、「用海将棋会」を結成し公民館を活動の拠点にした。大人が中心の会だったが子どもを排除せず、その指導をわたしが担当した。最初は同じ部屋での活動だったが次第に増え、子どもの部を別室に移した。多い時には30人を超えて、うれしい反面、運営には少々苦労した。そのうちあちこちから講師の声がかかり、西宮市からは「宮水ジュニア・将棋教室」の講師依頼を受けた。「宮水ジュニア」というのは、西宮市の放課後事業として、20種ほどの講座が用意されており、それぞれの専門知識を持つ地域の人がボランティアで講師を務めるもの。子どもたちの異学年交流の場でもある。将棋の場合はわたしがカリキュラムを作り、西宮市内各所の公民館に出かけて行った。指導した子どもは恐らく何千人。時には井上慶太九段、淡路仁茂九段などのプロ棋士に協力を仰いだこともあった。井上九段からは「役立てて下さい」と棋書をたくさん、淡路九段からは子どもが喜ぶ将棋グッズを提供してもらったこともある。また、我が家の隣の用海小学校将棋クラブには長年にわたり指導に通った。しかし、ある年度の担当教諭は、将棋が日本の伝統文化であるとの認識が全く無く、単なる遊びととらえており、意見が合わず身を引くことにした。わたしのことを、近所の爺さんが好きでやってきて、子どもと遊んでいるだけと思われたらしい。将棋文化を伝える難しさを感じたことだった。ほかにもいろんな所で子ども将棋教室の講師をしていたが順次辞めてきて、最後まで残っていたのが「宮水ジュニア・将棋教室」だった。それをこのほど引退する決断をしたのだ。思えば、わたしの人生の中の大きな柱の一つだった「子ども将棋指導」。単に技術を教えるだけではなく、将棋の歴史や礼儀作法などいろんなことを教えたものだった。時には文学的なことも。エピソードがある。ある子どもが言ってくれた。「学校で、尊敬する人をその理由と共に挙げるという授業の時に、○○君が今村さんのことを言っ12192
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