感情がむき出しになっている。第二次世界大戦下、戦車兵として戦地へ赴き、新聞記者として事件や事故と向き合い、作家として歴史の栄枯盛衰に迫ってきた…。彼は幾多の人の命、生死を見つめ続けてきた。司馬は大震災と対峙するなかで、詩のような表現でこう綴っている。《神戸。と私はつぶやきつづけている。やさしい心根の上に立った美しい神戸が、世界にただ一つの神戸が、きっとこの灰塵の中から生まれてくる》擬人化した神戸を恋人のように慕うラブレターのようでもある。そんな〝恋人〟の人生の再生を願うラストメッセージは、30年以上が経った今、読み見返しても胸に染みる。司馬の寄稿文を当時の「神戸っ子」編集部は号外にして神戸で配った。翌年、この号外は遺族の手で司馬の棺に納められたという。=終わり。次は水木しげる。 (戸津井康之)司馬が陳に誘ってもらった集いの場には、こんな面々がいた。《チョコレートのモロゾフさんが、陽気なアメリカ開拓者のように、たえず笑っていた。モロゾフさんも、本来、ロシア革命の難民だった。幼いころ、両親とともに神戸にのがれてきた》大阪外国語学校の同窓生、陳徳仁氏もこの集まりの主要なメンバーの一人だった。《この一座で、華僑の徳望家の陳徳仁さんは、幼児、神戸で科挙の試験の受験勉強をさせられたという話をした》台湾出身の両親のもと、神戸で生まれ育ち、作家となった陳舜臣。同じく神戸で生まれ、華僑の家系で育った陳徳仁。ロシアで生まれ、家族とともに神戸へ移住し、洋菓子店を神戸で興したモロゾフ…。神戸から、それぞれの役割を担って、戦後の日本を立て直した苦労人たちが一堂に集う、そんな場に〝歴史の証言者〟の司馬もいた。神戸だからこそ出会えた〝神戸の開拓者たち〟との交流に心弾ませる司馬の笑顔が目の前に臨場感豊かに浮かんでくる。「神戸を誇らしげに語る」彼の言葉は続く。《みな太平洋戦争の末期の空襲を経験されて、生き残った。全員が神戸が好きで、神戸という共和国がこの世にあるみたいだった》この〝楽しいひととき〟から約10年後…。 未曾有の大震災が、司馬がたとえた平和な「神戸という共和国」を襲ったのだ。衝撃を受けた司馬は、こう吐露する。《私は、呆ほうけたように、連日報道まみれの暮らしをした。感動しつづけたのは、ひとびとの表情だった。神戸だけでなく、西宮、芦屋など摂津の町々のひとたちをふくめ、たれもが人間の尊厳をうしなっていなかった》亡くなる一年前に、こんな神戸の惨状を目の当りにするとは想像もしなかっただろう。再び、「世界にただ一つの神戸」を振り返ってみたい。その締めくくりの一文は、淡々とした文章で数々の名エッセイを遺した歴史作家に珍しく119
元のページ ../index.html#119