岡山総局だった。このときの上司である岡山総局長がよく司馬のことを話していた。『菜の花の沖』の連載時、司馬の担当編集者を務めていたのだ。岡山総局長は司馬が文化部長時代の記者で、司馬の直属の部下だった。新聞連載が決まり、司馬から「タイトルが決まったで」と連絡があり、総局長が自宅へ向かうと、司馬は和紙に墨でこうしたためていたという。力を込めた書体で『菜の花の沖』と…。没後30年を迎えた今年2月12日、司馬の命日「菜の花忌」のために、東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」の周辺には菜の花の鉢植えが多数並べられ、来館者たちへ、菜の花の花束が贈られた。《全島が菜の花の快活な黄でうずまり、その花ごしに浦々の白帆が出入りした…》司馬が淡路島で見た広大な菜の花の原風景は、司馬文学を愛する人の心のなかで永遠に咲き続けるだろう。=続く。 (戸津井康之)僑歴史博物館館長、孫中山記念館館長を歴任した、あの陳氏である。司馬とふたりの陳氏とは大学卒業後も交流が続いた。《二十余年前、陳舜臣氏が江戸川乱歩賞を受けたとき、この賞の事務を主掌している講談社のS氏がわざわざ電話で報らせてくれた。――あなたとおなじ学校だった陳さんが『枯草の根』という作品で賞をうけられました。陳舜臣氏が小説を書いていることを知らなかった(夫人以外、だれも知らなかったろう)ために、――それはシナ語の陳さんですか、インド語の陳さんですか。 と、問い直した。S氏は、電話の震動板のむこうで笑いだした。私どもの学校の科目のたて方が珍奇で耳馴れなかったからだろう…》大阪外国語学校で、司馬はモンゴル語を、陳舜臣はインド語を、陳徳仁は中国語を専攻していた。ちなみに大阪出身の芥川賞作家、庄野潤三は司馬の二年先輩で英語科専攻だった。淡路島の原風景生前、司馬は、野に咲く黄色い菜の花を好んでいた。この連載で前に淡路島出身の海商、高田屋嘉兵衛を紹介した。海に面した淡路島の丘に咲く菜の花の描写から始まる小説『菜の花の沖』(文春文庫)は、淡路島で生まれ、神戸の港で操船技術を磨き、未踏の北海航路を開拓した嘉兵衛の一代記だ。司馬は淡路島や神戸などへ足しげく通って取材し、1979年4月から1982年1月の長期にわたって産経新聞朝刊で連載した。司馬は大阪の産経新聞文化部長時代に直木賞を受賞し、作家として独立する。私事ながら私は産経新聞文化部記者、編集委員として大阪本社で長らく勤務していた。司馬は同じ大阪文化部の大先輩にあたる。産経入社後、私の初任地は119
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