KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年4月号
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た。1896(明治29)年4月、小曽根喜一郎、神田兵右衛門、大倉喜八郎らが、会下山の南麓を流し長田村で苅藻川に合流させる計画を申請したが、明治28年頃から住民の反対もあり、神戸市からの指示で会下山の下をトンネルで通すことになった。同年8月に起きた大水害美しきかな ひょうごの文化財 16湊川隧道先人の偉業を後世に伝える近代土木遺産を機にこの画期的な民間事業が実行に移され、1901(明治34)年、近代土木技術を用いた日本初の河川トンネル「湊川隧道」が誕生した。工事の状況や工程は不明だが、残されたわずかな資料から、すべて人力による難工事であったと推測される。トンネル内の水が流れるインバート部には切石が敷き詰められ、水や土砂の流れによる摩耗に耐え、内部の側壁とアーチ部の煉瓦積みの覆工背面には栗石が充填され、地下水を排水し、地山からの土圧を均等に受け止める工夫がされている。先人たちの知恵と技術を結集して造られた全長600メートル、美しい馬蹄形の断面を持つ湊川隧道は100年にわたり、河川トンネルとしての機能を十分に果たしてきた。しかし、阪神・淡路築造直後の湊川隧道下流側坑門。八ヶ代信行氏提供現在の湊川隧道入り口六甲山系から大阪湾へ注ぐ湊川は、上流から押し流された土砂堆積で天井川となり、洪水時には市街地に甚大な被害をもたらしていた。また、東西の往来を遮断する堤防が地域の経済にも悪影響を及ぼし、地元の有力者たちは付け替え工事の必要性を早くから提唱してい14

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