神戸での熱狂なぜ、今も孫文が神戸市民や日本の多くのたちから親近感を持って語られ続けているのか。その大きな理由のひとつとして、1924年、神戸市の兵庫県立神戸高等女学校(現在の神戸高校)の講堂で孫文が世界へ向けて発した「大アジア主義」講演が起因している。孫文の講演から今年で102年。今、同校講堂の跡地には兵庫県庁が建っている。1985年刊行の『孫文と神戸』(陳徳仁/安井三吉著、神戸新聞総合出版センター刊)のなかで、この講演会がどれほどの熱狂ぶりで迎えられたかを二人の会話でこう明かす。《陳 二時に始まるという予定でしたが、押すな押すなで三〇〇〇人もの群衆が殺到したんです。そのために玄関の鉄柵が折れてしまったということです。二時半開門となるや講堂はたちまちにいっぱい、窓まで鈴なり、それでも一〇〇〇人ぐらいあぶれてしまい、仕方なく体育館を第二会場にしてやっと収まったということです。安井 それで孫文は、まず第二会場で簡単な講演を行い、それから講堂にまわって話をすることになるんですが、もう三時になっていました》急遽、講演会場を二つに増やし、体育館では30分ほどの簡単な講演だったというから「一目でいいから孫文に会いたい」という多くの人が全国から神戸へ駆けつけたことが分かり、当時の日本人の孫文に対する関心の強さが想像できる。そんな日本人に対し、孫文は講演の最後、こんな〝檄〟を飛ばす。喝を入れるように。《日本民族は既に欧米の覇道の文化に到達したのであるが、亜細亜王道の本質をも有してゐる。今日以後に於て、日本が世界文化の前途に対して西方覇道の猟犬となるか、或ひは東方王道の干城となるかは、諸君日本人が慎重に考慮してその一を選ぶべきである》と。一世紀以上も前、孫文が日本人へ問いかけた、この言葉の意味は、国際化を遂げた今の日本人が聞いても、決して古びれず、色褪せてもいないことを知らされる。否、むしろ現代の日本人にこそ、この孫文の言葉の意味は重くのしかかってくるように思える。「また、神戸へ来たい」とメッセージを残して孫文は日本を去るが、この願いが叶うことはなかった。講演会から一年後。1925年、病気のため、孫文はこの世を去る。まだ58歳だった。《陳 孫文の死は、在神華僑にとっても深い悲しみをもって迎えられました。一九二五(大正一四)年三月二四日、中華会館と神戸中華総商会の主催による追悼集会が開かれました。神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編孫文屈することなき英雄の姿…神戸から発した平和への願い106
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