KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年3月号
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有馬温泉歴史人物帖吉が館林藩主になると奏者番、将軍になると御おそばごようにん側御用人、その後大名とトントン拍子。御側御用人というポストは成貞がオリジンなんだそうで。 そんな成貞の名が、なんと有馬の温泉寺正面の左右にある石灯籠に刻まれているんですね。でもいまでは風化して、右の灯籠の「従四位拾遺牧野大夢源成貞」のうち「野大夢」の部分だけがギリ判読できるかな?って感じですが、家紋の三ツ柏はハッキリわかります。「大夢」とはベイスターズの伊勢大夢投手…じゃなくて1709年の綱吉薨こうきょ去直後に出家した成貞の法号です。 この灯籠2基は、成貞が1710年に有馬を訪ねた際に寄進したもの。成貞はこの時77歳の高齢で、時の将軍家宣から「有馬温泉行くの?じゃ、これあげるからゆっくりしといで」と羽織を3つプレゼントされていることからも療養目的での来湯でしょうね。でもそれならその6年前に湯 前々回ご紹介した『慶安太平記』に負けず劣らず『柳澤昇進録』も面白い講談でございます。流派によっては『柳澤騒動』とも申しますが、柳沢吉保が一介の旗本の倅せがれから綱吉の寵愛を受け幕政を牛耳るまでになるというストーリーを、なんと本人が存命のうちに嘘でっち上げで創作したフィクションなんだとか。『浅妻船』や『徂そらい徠豆腐』といったメジャーな演目もここからの抜き読みです。ちょうどいま旭堂南海先生が大阪の動楽亭で毎月これを続き読みしてはりますので、気になる方はぜひ。3月は27日18時半からです。 この物語の中に、綱吉やその母の桂昌院へ繋いで吉保の出世の足がかりをつくる役まわりで出てくるのが牧野成貞でございます。でも実際は、成貞も綱吉の取り立てで吉保に勝るとも劣らぬ爆アゲコースをたどった人物。もとは吉保と同じく旗本の息子で、少年の頃に近侍として仕えた綱治した熱海の方が屋敷のある江戸から近い訳なんですが、なぜわざわざ遠い有馬へ? 推察するに…温泉寺は1695年の有馬の大火で全焼、自力再建が難しかったのか、それまで本寺を持たなかったのに智積院の末寺となります。智積院とは秀吉が埋葬された阿弥陀ヶ峰の喉元に、その神格化を妨害すべく家康の計略で置かれたとされる真言宗の寺院。徳川としては温泉寺を智積院グループに編入し、有馬の秀吉臭を消したかったのかも。そして復興に奔走する温泉寺の僧、順海は1701年、真言宗ルートで綱吉に拝謁し、寺宝を特別に見せて桂昌院から助成金30両を頂戴します。その後綱吉も桂昌院も卒し、成貞が成り代わって温泉寺の支援に一肌脱いだのでしょう。脱がなきゃ温泉入れないしね。~其の参拾六~牧まきの野成なりさだ貞 1635~171297

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