KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年3月号
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革命に懸けた人生アジアで初となる共和国を建国し、今でも中国や台湾で〝国父〟と呼ばれている。世界が領土争いに明け暮れていた時代。一国の将来だけでなく、アジアの、世界の平和を願い、未来を変えようと奮闘した革命家であり、中華民国初代臨時大総統、孫文(1866~1925年)。実は孫文と日本、なかでも神戸との関わりは、とくに深かった。「中国で生まれた偉人」は、「神戸の偉人」として、時を超え、国境を越え、多くの日本人、とくに神戸の人たちに親しまれてきた。それは、なぜか?孫文が初めて神戸を訪れたのは、今から遡ること130年前の1895年11月。 「三民主義」(民族主義、民権主義、民生主義)を掲げ、中国の真の独立を目指す孫文は、その前年の1894年、清朝支配による君主制を打破しようと革命運動を開始する。革命の地は広州。「武装蜂起の日」を1895年10月26日と定め、同志の民衆を集め準備を進めるが、事前に発覚してしまう。この「広州起義」は未遂に終わり、清朝を敵に回し、密偵から追われる身となった孫文は船に乗って広州を脱出し、香港へと渡る…。そのときの脱出の詳細が、1985年刊行の『孫文と神戸』(陳徳人/安井三吉著、神戸新聞総合出版センター刊)のなかに、著者二人の会話のなかでこう綴られている。《陳 そこで広島丸に乗って神戸に来た。安井 そうです。日本郵船のボンベイ航路の貨物船です。三二八二トン、当時としては大型の新鋭船です。積み荷は綿花のはずです》綿花とともに孫文は神戸へとやって来る。《陳 神戸に着いたのはいつですか。安井 一八九五(明治二八)年一一月九日あるいは一〇日です。広島丸は、一一月二日香港を発たって、九ないしは一〇日に神戸着、二、三日停泊した後、一二日午後四時、横浜港へ向けて出港、こうした広島丸の入港、出港は、すべて当時の新聞に出ています》孫文は28歳の若さで民衆を統率し、革命を起こそうとしていたのだ。広州起義は失敗したが、孫文は革命をあきらめていなかった。命を狙われた孫文の逃避行は長期化し、世界を転々とする。その拠点のひとつとして、度々、足を運んでいたのが、神戸だった。初めて神戸の地を踏んで以来、孫文は合計18回も神戸を訪れ、滞在している。なぜ、神戸だったのか?神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~前編孫文神戸から世界へのメッセージ…日本を愛した革命家106

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