KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年2月号
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大谷探検隊の功績今から遡ること約130年前。1895年、浄土真宗第二十二代宗主の大谷光瑞は、まだ世界渡航が困難だった明治時代中期、すでに、世界に目を向け、日本の宗教界を変えようと奔走していた。なぜ、宗教家の光瑞が、現在も探検家として世界に名を遺しているのか? 〝探検家・光瑞〟が誕生するきっかけとなる描写が、作家、津本陽の小説『大谷光こうずい瑞の生涯』(角川文庫)のなかで、こう綴られている。《西本願寺新門主として、いかなる大事業をも推進しうる立場にある彼が、西域の仏蹟を探検するための準備をはじめたのは、明治二十八年の秋であった》このころ、すでに欧州各国が探検隊を中央アジアへ派遣したり、東洋学会を結成するなどし、国の総力を挙げて、東洋文化・思想や仏教研究を本格的に進めている事実を、ロンドン留学中の光瑞は知り、愕然とする。《「キリスト教徒が仏教の遺跡を探検しておるというのに、われわれが坐視するわけにはいかん」》日本が世界から遅れを取っている現状に危機感を覚えた光瑞は、この言葉を実践するために自ら探検隊を結成し、1902年から1914年まで、約12年間にわたり計3度の中央アジア地域の探検・調査活動を実施している。その名も「大谷探検隊」。第一次大谷探検隊は、1902年から1904年まで。イギリスのロンドンで留学中だった光瑞が5人で成る探検隊を率い、インドへと向かった。光瑞があせっていたのも無理もない。当時、敵対関係にあったロシアとイギリス両国は中央アジアへ、考古学を調査する探検隊を盛んに派遣していた。それは世界で覇権を取るための重要な国策でもあったからだ。1898年、ロシア隊は天山山脈のトルファン盆地でカラ・ホージョ廃城の調査を実施。翌年、ローマで開かれた国際東洋学者会議で同遺跡は世界で知られるところとなる。その翌年1900年に出発した英国の探検家、オーレル・スタインが1901年、現新彊ウイグル自治区でニヤ遺跡を発見。また、1900年、スウェーデンの探検家、スヴェン・ヘディンが楼蘭の遺跡を発見。遺跡近くの内陸湖「ロプノール」は、「さまよえる湖」と呼ばれ、世界から注目を集めた。神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~後編大谷光瑞インド探検で世界的発見…型破りの寺院建築130

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