大正9年(1920)の甲南小学校。創設は明治45年(1912)学校法人甲南学園所蔵資料平生 釟三郎甲南学園の発展、甲南病院の開設など住吉のまちづくりの基礎を築いて神戸のため、国のためにも尽くした偉人平生釟三郎の父、田中時ときのり言はもともと庄屋の三男坊だったが侍を志し、その気骨に惚れた美濃加納藩士、田中熊三の娘の婿となり田中家を継ぎ、江戸に出て砲術を学んで戊辰戦争の砲隊長となった。しかし、その腕前を発揮することなく武士の時代は終わる。釟三郎が生まれたのはその頃、1886年だが、明治となり俸禄を失った田中家は貧困にあえぎ、釟三郎は中学を退学せざるを得なかった。しかし、東京外国語学校の給費生の座を勝ち取り、後の二葉亭四迷、長谷川辰之助と主席を争うように。ところが東京外国語学校が東京商業学校(現在の一橋大学)の語学部に編入され給費がなくなる。そこで時言の遠戚、平生忠辰の養子となって学費の援助を受けた。卒業後は東京商業学校の校長、矢野二郎の斡旋で朝鮮政府の税関で働くが、3年後、矢野の依頼で神戸商業学校の校長に就任し、校紀の乱れを正し再建。するとまた矢野に懇願され東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社して渡英し、実業界で活躍した。帰国後はしばらく大阪に住んでいたが、やがて住吉村に移り、財界人の邸をここに誘致して名士と〝ご近所付き合い〟を深めた。するとある日、弘世助太郎(日本生命社長)に、実業家有志で住吉に学校を建設するにあたり教育経験者として発起人になってほしいと相談を受け、甲南学園の創立に尽力。その運営が傾くと経営を引き受けて立て直し、1926年に理事長、1933年には校長に就任、「個性を尊重し、各人の天賦の才能を引き出す」という方針を打ち出し、学園を発展させた。1931年からは第一次世界大戦後の世界的不況で倒産の危機にあった川崎造船所の再建に無償で取り組んだ。1934年には甲南病院を開設、灘購買組合の設立にも協力するなど数々の社会事業に尽力し、晩年は貴族院議員や文部大臣にも奉職。敗戦の3か月後、人のため、地域のため、国家のために尽くした人生に幕を下ろした。53
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