1900年に朝日新聞の村山龍平が御影村郡家に土地を取得し、1904年には住友銀行初代支配人の田辺貞吉が住吉村反高林、住友家総理事の鈴木馬左也が御影村郡家に邸宅を構え、田辺と後に日本住宅の社長となる阿部元太郎が組んで住吉村観音林・反高林一帯の山林約1万坪を住吉村より20年契約で借り受けて1909年から宅地開発をおこなうと、住吉駅北側の郊外住宅地化が急激に進んでいった。主に大阪の富豪たちがここに移り住んだが、彼らの声を受け、1911年、住吉村が反高林の村有地を無償で提供し私立甲南幼稚園が設けられ、翌年には甲南小学校も開校した。その創立に関わった阿部元太郎、田辺貞吉のほか、野村銀行頭取を務めた野村元五郎、日本毛絲紡績の芝川栄助らが発起人となり、住民が交流し地域活性化を語り合う場にと創設されたのが観音林倶楽部だ。反高林の松林の中に、中之島図書館の設計で知られる野口孫市が図面を引いた山小屋風の洒脱なクラブハウスが建ったのは1912年のこと。地域住民が集い語らうだけでなく、座談会や講演会もおこなわれ、囲碁、謡曲、ビリヤード、いけばななど趣味でも交流を深め、散髪もできる〝憩いの場〟としても親しまれた。正会員には鉱山王の久原房之助、安宅産業の創業者にして仏教学の大家、鈴木大拙の支援者でもある安宅弥吉、野村證券や野村不動産など野村グループの基礎を築いた二代目野村徳七ら錚々たる面々も名を連ねている。毎年新年には名刺交換会が開催されて財界人の大物が一堂に会し、日本の経済を動かす社交場となったという。平生釟三郎と那須善治も会員で、ここで灘購買組合(現在のコープこうべ)設立について二人で話し合っていたとも伝わる。1938年の阪神大水害でクラブハウスが被災、時代も戦争に突き進み、観音林倶楽部はその役割を終えた。しかし、その地は住吉学園に継承され、現在も住吉のコミュニティを支えている。御影山手に開院した甲南病院学校法人甲南学園所蔵資料住吉村のコミュニティの拠点となった観音林倶楽部観音林倶楽部住吉の松林の中にひっそりと佇む小さなクラブハウスに財界の大物たちが集い大正昭和初期の日本の経済を動かしていた住吉特集52
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