―日本経済を動かしたといわれる「観音林倶楽部」とは? 紡績業、薬品業、銀行業、海運業、酒造業などさまざまな業種の財界人たちが集まり、明治45年に社交場として「観音林倶楽部」を開設し、会館が建設されました。当時は大阪が経済の中心でしたから、「日本の経済は観音林倶楽部を中心にして動く」などと言われていたようです。潤沢な財力を原資として住吉村のインフラが整備され、女子にも学問を教え、花嫁修業をさせようと1919年に財団法人睦実践女学校が設立されています。平生氏の甲南学園創設や灘購買組合設立、甲南病院創立なども観音林倶楽部で話し合われ、財界人からの資金援助で実現しています。現在の充実した教育や医療、豊かな生活の基盤が築かれたと言えるでしょうね。観音林倶楽部は22年後に活動を終え、住吉学園に無償で譲渡されました。現在、財団が事務所を置く住吉学園の地です。―住吉学園はいつ、どんな目的で設立されたのですか。 経営不振に陥った睦実践女学校が住吉村に寄付され、1944年、学校運営のために設立されたのが住吉学園です。文部大臣も経験しておられた平生先生の尽力で、終戦直前に認可されたのだと思います。観音林倶楽部のメンバーは昭和初期ごろから、いずれは神戸市との合併があるだろうと予測していたようで、大阪市の財産区となった天王寺村へ行き「住吉村は財産区にはならず自分たちでやっていける」と助言をもらったと聞いています。村有財産の受け皿として住吉学園を設立したと考えられ、戦後の混乱期にもかかわらず、昭和22年、村有財産の住吉学園への移管が完了しました。六甲ケーブル山上駅から東へ芦屋市との境あたりまで南斜面に沿った山林を含め、財界人が所有した土地を除き、住吉駅北側ほとんどすべての土地が住吉学園の管理下に置かれ、神戸市長の許可を得ることなく、財団法人理事長の裁量で村有財産を村民のために使うことが可能になったのです。とはいえ、終戦直後は手元の現預金を戦後復興に使い果たし、いわゆる「切り売り」で土地を現金に変えざるをえない時代もありました。1955年以降は住宅地としての開発が進み、神戸市に売却した現在の渦森台を除き、住吉学園が管理する宅地はすべて借地とし、住吉村から引き継がれた財産が守られてきました。―今の住吉、これからの住吉についてのお考えをお聞かせください。 住吉界隈は非常に便利でありながら静かで落ち着いた街です。住環境が良く、甲南学園、灘中・高をはじめ、教育環境が整っています。甲南病院も新しくなり医療環境もますます充実しました。古くは吉田家の人々、明治から昭和初期に水車は住吉の象徴でもある50
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