KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年1月号
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には100基以上の水車が点在していました。上流の荒神山から採掘され、御影の浜から全国に送り出された有名な御影石も石臼として利用するには適しており、灘五郷の酒米精製をはじめ、泉州からやってきた菜種油絞りや播州の素麵づくりの起源となった「灘目素麺」の小麦粉製造などの動力として利用されていました。こうして、住吉村を含め、当時の尼崎藩領だった摂津国西部地域は一大工業地帯を成し、栄えていました。この盛んな産業に幕府が目を付けたのでしょうか?江戸中期以降は幕府直轄領となっています。廃藩置県後の1871年には、莵原群50の村は兵庫県第六区の管轄下に置かれ、住吉村も属することになりました。その後、電気が普及するにつれて、動力としての水車 も役目を終えています。―住吉村の発展に寄与した吉田家とは?吉田家の起源は南北朝時代まで遡ります。京都の公家貴族・吉田定房の三男、吉田幸麿が騒乱を嫌い、吉田家領地だった住吉村に永住を始めました。その後の吉田家は歴代、住吉の旧家と婚姻関係を結び、分家それぞれに水車を利用する菜種油業や清酒醸造業、廻船業などで大きな財を成しただけでなく、江戸時代には住吉村の庄屋を務めています。慈悲深い村政を執り行ったといわれ、その源となったのが豊かな財力だったといいます。明治になって大阪・神戸間に鉄道の線路を敷くにあたり、駅の設置を周辺の村々が反対しましたが、おそらく土地を提供し、真っ先に駅を誘致したのが吉田家の人たちでした。―駅の設置が高級住宅街への礎になったのですね。吉田家の尽力により、1874年、官営鉄道「住吉駅」が開設され、住吉村の利便性が高まりました。1900年ごろ、住居を住吉に移した平生釟三郎先生が財界人を誘致し、1908年、住友銀行初代支配人の田辺貞吉氏が住まいを置き、その後、日本生命社長の弘世助三郎氏、朝日新聞創業者の村山龍平氏など多くの大阪財界人が、温暖で住みやすいこの地に別荘を構えました。その後も大正から昭和初期にかけて、野村証券を築いた野村徳七氏、白鶴酒造の嘉納治兵衛氏、武田薬品の武田長兵衛氏、乾汽船社長の乾新兵衛氏など錚々たるメンバーが続き、1924年には平生先生も邸宅を構えています。現在はほとんどが当時の姿を残していませんが、平生邸は甲南学園平生記念館、嘉納邸は白鶴美術館、武田邸は武田資料館などとして現存し、村山邸は国指定重要文化財として、乾邸は神戸市指定有形文化財として保存されています。この界隈を歩いていただくと、御影石の立派な石垣があちらこちらで見受けられるのも当時の面影の一つです。住吉学園の前身である私立睦実践女学校49

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