KOBECCO(月刊神戸っ子)2026年1月号
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教育の場、別頁で紹介する観音林倶楽部といった社交の場も設けられてコミュニティも充実していき、大阪船場の和の粋な文化と神戸のハイカラな洋の文化がここで融合、阪神間モダニズムの発信地の一つになっていった。住吉に住まった名士を紹介しよう。1900年に海運業の河内研太郎、その4年後には住友銀行の田辺貞吉が土地を得る。大阪商人の生島永太郎、日本生命取締役の岸田杢、別頁で解説する平生釟三郎、住友家お抱え建築家の野口孫市、日本生命創業者の弘世助三郎、大阪農工銀行頭取の弘世正三、大阪毛織の芝川栄助、大阪取引所取引員の静藤次郎、大日本紡績創業者の田代重右衛門、デベロッパーの阿部元太郎、電気王とよばれた才賀藤吉、大日本紡績社長の小寺源吾らが開発初期からの住民だ。その後も大正中期には鐘紡社長の武藤山治、野村財閥を築いた二代目野村徳七、住友家当主の住友吉右衛門友純らが豪邸を建て、昭和に入っても武田薬品工業社長の武田長兵衛、野村銀行頭取の野村元五郎らがお屋敷を構えた。その結果、住吉村は日本一の長者村として全国に名を轟かせる。住吉駅は小さな駅ながら一等待合室を備えて東京~下関を結ぶ長距離列車も停車。1932年の住吉村の1世帯あたりの納税額は兵庫県平均の12倍超と断トツで県のトップで、規格外の裕福さがあった。しかし、1938年に阪神大水害、続いて太平洋戦争の空襲に遭い、栄光の日々は過去のものとなる。少しずつアップデートしながら未来へ戦後、1950年に住吉村は御影町や本庄村など近隣の町村とともに神戸市に編入され、東灘区の一角に。高度経済成長期には都市化が進み、その波に洗われるが如く一つ二つと大邸宅は消えたが、環境、文化、文教、コミュニティといった得難いレガシーは受け継がれ、鉄道・道路とも交通が充実、この地で萌芽したコープこうべをはじめとする商業施設も整って利便性も磨かれ、市民にとって雲の上の桃源郷から手の届く憧れの街へと変貌、人気の住宅街となった。1995年の阪神・淡路大震災では被害を被ったが程なく復興。そのことでまちづくりの意識もより強くなり、現在は成熟・守成の時を迎えて、神に選ばれ、幕府に求められ、富豪たちに愛されたこの地の価値を、少しずつアップデートしながら未来へ繋いでいる。蛍も生息する清流、住吉川47

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